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2019年03月03日|お知らせ
自由主義的人間、家族主義的人間、社会民主主義的人間―『ポスト工業経済の社会的基礎―市場・福祉国家・家族の政治経済学』 G. エスピン‐アンデルセンより。
ポスト工業経済の社会的基礎―市場・福祉国家・家族の政治経済学
G. エスピン‐アンデルセン (著), Gosta Esping‐Andersen (原著), |
午前7時起床。浅草は晴れ。G. エスピン‐アンデルセン の『ポスト工業経済の社会的基礎―市場・福祉国家・家族の政治経済学』を再読し始めている。
『資本主義が生み出す階級的分断と社会的不平等とを、議会制民主主義はいったいどのよな条件のもとで是正することができるのか。これが現代という時代を貫く中心的課題であり、広義の政治経済学の核心問題である』(「訳者あとがき」:p261より)は、米国流のグローバリズムが破綻した今という時代にこそ相応しいものだといえるだろう。
というか、アンデルセンのこの本は2000年に出版されたのだけれども(あたしは2002年に購入した)、政治も、経済学も、グローバリズム経済、金融市場主義のあまりの勢いに、この広義の政治経済学の核心問題を考えることを怠っていた(思考停止になっていた)ということだろう。(遅いかもしれないけれど)将来の子供達のためにも、この問題は考えることを止めてはならないものだと思う。「街的」とか「町内会的」というのは、この問題を、政治経済学的にではなく、(言ってみれば)民俗学的に扱っているに過ぎないわけだ。
以下に、アンデルセンによる、自由主義的人間、家族主義的人間、社会民主主義的人間のまとめ(p239~241)を(今更さながらに)してみる。それは、経済学が前提としている 人間―経済人(ホモ・エコノミクス)という人間像よりは、この三分類は、はるかに使い勝手があると思うからだ。
自由主義的人間
- 自由主義的人間はミスター経済のようなものである。
彼は自分の個人的な福祉を計算する意外、いかなる高尚な理想も追おうとはしない。他人のよりよい暮らしは他人のものであって、彼の者ではない。 - 高貴な独立自尊の考え方は必ずしも他人に対する無関心を意味するものではない。自由主義的人間は寛大であり、利他的でさえあるかもしれない。しかし他者への親切は個人的な問題であって、上から指図されて行うことではない。
- 彼の倫理観によれば、無料の食事にありつくこちは非道徳的であり、集団主義は自由を損ない、個人の自由は失われやすい美徳である。それは邪悪な社会主義や家父長的な集団主義によって簡単に破壊されてしまうものである。
- 自由主義的人間が求める福祉レジュームとは市場に参加できる者はそれを行い、できない者は慈善の対象になるべき。
家族主義的人間
- アトミズムと人間性―市場と個人主義を嫌う。
彼にとっての最大の敵は人々が角突き合うホップス的な世界である。なぜなら、私利私欲は非道徳的なことだからである。人間は家族のために働いてこそ心の平静を得ることができる。 - 自由とは、彼と彼の家族が自分たちを取り巻く大きな世界から生み出される絶え間のない脅威から自己を守ることを意味する。彼は、周りの世界に挑戦しようとする、抑えがたい衝動に駆られた敏腕のやり手ではない。彼は最小限を充たすことで満足する人であり、最大限を追求する人ではない。彼にとって、実際に重要なのは安定と安全なのである。
- 家父長制をよいものと見なしている。
敬意がなければ家族はばらばらになってしまうだろう。 - 彼らにとって、家族とは連帯とコミュニティのこの上ない源泉である。
- 国家あるいはなんらかの上位の組織があらゆる不幸のリスクを排除してくれることに全面的に賛成である。だが上位の組織は家族に支援を提供するために存在するのであって、忠誠を強要するものであってはならない。
- 家族主義的人間は市場の動きをコントロールし、緊密な連帯の素晴らしさを称揚するような福祉レジュームをもとめる。
社会民主主義的人間
- 社会民主主義的人間には、ボーイスカウトや敬虔なキリスト教徒のように、みんながよい行いをするときには自分もよい行いをしたいと考える傾向がある。他人によい行いをすることは慈善行為ではなく、むしろ、冷静な計算にもとづく行為である。
- 社会は分かち合いが求められており、だとしたら上手に分かち合った方がよい。つまり、彼もまたどんな人も、欠乏のない、と同時にただ乗りもない世界でこそ豊かになれると考えている。
- 集団的な解決が常に最高のものであるとされるのは、個々人への権限付与(エンパワーメント)を信じているからで、集団主義の追求はそれ自体が目的ではないく、個々の人間から最大限を引き出そうとして行われるから。
- 社会民主主義的人間の個人主義は警戒心を怠らない。なぜならだれも情実、利益、特別な認知を受けてならないからだ。だから社会民主主義的人間は個人主義と大勢順応との間の道徳的葛藤から逃れることはできない。
- 彼は、われわれはみな平等に権利を与えられているという考え方が大好きである。彼は、だれかが他人の、とくに彼自身の上に立つという考え方が大嫌いである。したがって、連帯は、だれかが少しでも共通の基準を踏み外そうと考えたとたんに壊れやすいものとなる。
- 社会民主主義的人間は、公的福利に投資すれば、それがますますよくなると固く信じている。そして、これはよき生活という形で全員、特に彼自身にまで浸透する。したがって、集団的な解決策は、退屈であるかもしれないが、個人のよき生活に唯一にして最善の保証である。
Written by : 2009年01月13日 11:34: Newer : Older
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