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2019年03月03日|お知らせ


2007年04月22日(日) 

伊勢神宮を参拝してきたこと。

外宮 内空
外宮-豊受大御神            内空-皇大神宮

午前6時20分起床。浅草はくもり。昨日は(株)ビーイングさんのおはからいで伊勢の神宮を参拝することができた。津田社長はじめ社員の皆さんの心遣いには深く感謝なのである。

神宮には何度か訪れてはいたのだが、今回はある本を読んだおかげで目的もって参拝に望むことになった。それは「後戸の神」としての外宮-豊受大神をちゃんと感じる、ということだ。

伊勢神宮は内宮と外宮という2つの正宮ともろもろの雑宮からなる複合体である。(詳しくは神宮のサイトをご参照いただきたい)。

神宮宮社の一覧表

所管区分 正宮 別宮 摂社 末社 所管社 別宮所管社 総計
皇大神宮 1 10 27 16 30 8 92
豊受大神宮 1 4 16 8 4   33
2 14 43 24 34 8 125社

(引用:http://www.isejingu.or.jp/isemairi/isemairi.htm

神宮を参拝するときは普通、外宮―内宮の順番となる。(今回もそうであった)。内宮の周辺にはおかげ横丁やそれを孕んだおはらい町というテーマパーク化した街もあり賑やかであり、多くの参拝客を集める。そして神宮のサイトの外宮の説明にはこうある。

豊受大御神は御饌都神(みけつかみ)とも呼ばれ、御饌、つまり神々にたてまつる食物をつかさどられています。このことから衣食住、ひろく産業の守護神としてあがめられています。内宮と同じく、正宮と呼ばれますように、建物やお祭りはほとんど内宮と同様ですが、両宮は決して並列されるものではなく、あくまで内宮が神宮の中心なのです。

外宮の生々しさについて

しかしそれは以前から感じていたことなのだが、伊勢の神宮は(中心ではない)外宮の方が、なにか生々しい人間の野生性のようなものが漂っていることで興味深かったのだ。しかしそれが何故なのかがよくわからないでいたのだ。

しかし最近読んだ、中沢新一の『ミクロコスモス I』に収められていた「哲学の後戸」で、闇は晴れた。そこで中沢新一は(グノーシス的思考の展開の場としての)外宮という見方を提示している。

ミクロコスモスⅠ

ミクロコスモス I

中沢新一(著)
2007年4月8日
四季社
1280円+税

中沢新一は「三重の意味で、外宮神官の意識のなかには、境界領域がつくられていた」というのである。ひとつは政治的な意味でであり、内宮に対して外宮はつねに劣勢に置かれていた。ということだ。(それは先のサイトの記述でもあきらかだろう)。

もうひとつはトポロジーにかかわる境界であって、「普遍経済学」的なアプローチをとる私には、これはとても興味深いものとなる。

外宮の豊受大神は食物神として、天照大神の背後に立つような関係にある。太陽の神にもい食物の供犠が必要で、自然に内臓される力を形而上学的な活力に転換させるこの供犠を通じて太陽の神は力を得る。この転換は外宮における豊受大神のもとでおこなわれる。その意味で豊受大神はみずからのうちに闇を抱えこむことになる。まばゆい光を放つものの背後に控えて、闇と光の混在する境界領域において偉大な転換の業を行使しながら、豊受大神は天照大神に対する「後戸の神」の位置に立つことになる。(p149)

そしてもうひとつは芸能的なものとのかかわりについてである。

外宮に祀られている豊受大神が、内宮の天照大神に食事を奉仕する役割をもった神であり、 (乙の関係が采女と天皇の関係と並行しているという、櫻井勝之進氏などの考えが正しいとするならば)食事ばかりでなく愛嬌や機知や歌舞や音曲をも奉仕するような立場にある女神であるとすると、この豊受大神の許で伊勢神宮にお勤めをしている神官たちの創造した神道論のもつ、この特殊な構造には、きわめて深い意味が隠されているように思えてくる。天照大神は完壁な光輝を体現する女神として、彼女自身はフィジックス(形而下)をもたない。その女神にフィジックスとの回路をつなげているのが豊受大神なのである。太陽の女神に対する月の女神とも言われるこの神は、天照大神が放射する光のなかにあると、まるで区別がつかないで、一体になって光を放っているように見える。しかし、よくよく目をこらしてみると、ふたりの女神は別体で、天照大神の背後の、仏教寺院で言えば仏像の背後にあたる「後戸」と呼ばれる空間に、豊受大神が複雑な波動を混ぜあわせた不思議な光を放ちながら、たたずんでいるのが見えてくる。後戸を通して、文明や啓蒙や救済や叡智の光を放っていた聖なる空間は、深い闇のなかにつながっていく。豊受大神はこの後戸の空間に立つ女神なのだ。(p169)

そういう「後戸の空間に立つ女神」としての外宮-豊受大神を、今回は(少しだが)感じることができたのではないかと思う――のだが、気のせいかもしれない。(笑)

投稿者 momo : 2007年04月22日 09:36 : Newer : Older

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