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2019年03月03日|お知らせ



匿名性幻想でネット環境は悪化する―企業・大学で実名原則の徹底指導を、と伊東乾は言う。

「インターネットというメディアは、基本的に実名で情報を公開してゆくメディアである。同じメディアを利用して、匿名的なコミュニケーションも行うことができるが、大原則は実名を伴う社会的責任を負って、情報のやり取りをするツールである」/こんな「常識」を持った「情報社会A」(と仮に名づけてみます)と、「インターネットは匿名的な情報通信が基本」と思っている「情報社会B」(と呼ぶことにすれば)とは、ネット上でのモラルに天と地ほどの違いが出てくること、想像に難くありません。[匿名性幻想でネット環境は悪化する (伊東 乾の「常識の源流探訪」):NBonline(日経ビジネス オンライン)]

私―他者という補助線 午前7時起床。浅草は晴れ。[匿名性幻想でネット環境は悪化する (伊東 乾の「常識の源流探訪」):NBonline(日経ビジネス オンライン)]を読んでいた。伊東乾先生の主張はごもっともなだなと思う。ぶっちゃけ私は匿名でも/実名でもどっちでもよくて、問題は〈私〉があるか/ないかだけなのだが、そのためには「個@種」で書くことは必要な習慣だと思う。つまり私―他者という補助線がひけるかどうかだ。

そもそもインターネットに真の匿名性などありはしない。ケイタイやインターネットは私たちがかつて経験したこともない非匿名性の媒体でしかなく位置情報も残ればアクセスログもちゃんと残る。ケイタイの通信記録でビクビクしているのはどこの誰なのよであり、ソープでカード決済したらその途端にその情報は世界に発信されている。つまりそれを日常的に目にしていないだけのことで、多くの方々が匿名性だと思っていることなど匿名でもなんでもないのである。しかしだからと言って実名で書く(情報を発信する)べきだと言うのではない。

たとえば企業や協会のイントラネットでさえ、匿名での書き込みを希望する方がおられる。私はコンサルタントの立場でそれを拒否してきたけれど、「インターネットは匿名的な情報通信が基本」と思っている「情報社会B」はかなり深く根をはっているように思う。

もちろん趣味のブログなら匿名でも匿顔でも勝手にやっていただければよいのだが、私がコンサルテーションしていることはブログ云々なのではなく、〈私〉@○○(○○の中には業界団体でも企業でも学校で町会でも趣味のサークルでも入れてみればよい。もちろん「私@私」ができるなら完璧である)としての〈私〉は何を書ける(情報を発信できる)のか、書きたいのか、そして書き続ける(情報を発信し続ける)ことができるのか、なのである。

それは情熱の問題かもしれないし、なにかへの執着なのかもしれないが、そいうある種のポジティブさがなければ、この時給850円の時代に建設業(に限らず自分の仕事)などを続けられるわけもないのである。

情報化だとかIT化だとか言われて久しいけれど、多くの方々はこの(〈私〉@○○で書く)リテラシーを持ちあわせていないし多くの企業はあえてそれを避けてきたことで今という時代に適応できていない――お疑いの方はためしにやってみればよい。書けるのならそれは素晴らしいことだと絶賛しよう(ただそれだけのことだが)――。そのことでじつは匿名性が本来持つべき偶有性が機能していない。

〈私〉@○○で書けないことが(つまり〈私〉=個@種のないことが)日本に公共圏としてのインターネットが育たない原因だし、〈個〉が育たない原因だし、私たちの声が〈他者〉に届かない原因だと(私は)思っている。なのであえて「存在することの習慣」"the habit of being"として〈私〉@○○の立場で書いてもらうようにしている。

だから逆説的だけれども〈私〉@○○の立場で書かれているのなら、それが匿名であろうが/なかろうが関係ないのである。つまり(私は)匿名性を否定しない。ただ訓練としては〈私〉@○○で書くことは有効だよと言っているに過ぎない。特に歳をとってから、インターネットという媒体を使わざるを得なくなった私たちにとってはだ。

インターネットの厄介さは、匿名であろうが/実名であろうが、主体性、固有性のない動物的な「剥き出しの生」として浮遊するだけなら想像界的なものにしかならないことだ。

鏡像による自己確認がリスザルのチャクコールニホンザルのクーコールのように「チャック・チャック」や「クー・クー」だけですむなら「分離―不安」は動物的に機能するだろう。一番の問題は〈仲間/仲間でない〉ことなのである。そこでのコミュニケーションは〈内/外〉〈味方/敵〉の確認だけで十分なのであり〈私〉の生活はそれ以外を要求しないだろう。想像界的接続は〈内〉を探し出し〈内〉だけに執着する。〈内〉とは子宮の同心円上にある接点であってそれは場所を問わない。たぶん言葉を必要としないように時空を超えている。(Re:[宇宙人来訪、か?]―「空気を読む」コミュニケーションには豊かな語彙や適切な統辞法や美しい音韻は無用のものであるということについて。

そんな臍の緒コミュニケーションにこそ自由はあるという方もおられるが、私はそうは思わない。コミュニケーションは円環として内に篭ってしまい〈島宇宙〉の中で収斂してしまうだろう。それは〈内/外〉〈味方/敵〉の確認だけで十分であることで、匿名性は誹謗中傷の対象としての敵を見つけけやすい。そして敵とみれば容赦ない。

それは〈自由〉ではないだろう。百歩譲ってネットでの匿名性は少しは自由を担保するかもしれないとしても、それには担保すべき〈私〉の自由が必要なのである。〈私〉の自由とは〈私〉の思想の自由である。しかし想像界的接続には言葉も不要であることで〈反省〉もない。だから〈私〉もなければ〈他者〉もないことで公共圏でもない。そのことで匿名であることの可能性=偶有性は逆に機能しづらいのじゃないかと(私は)思う。(まあ偶有性を望んでいればのことだけれど)。

〈私〉が〈私〉であるということ=単独性の自覚(そのメカニズムはパトリである)は、私がまるごと〈他者〉でありえたという意味での偶有性と表裏のようにつながっている。だからこそ〈他者〉もあり、公共圏もあり、円環的な〈内/外〉〈味方/敵〉を超えた自由(思想の自由)もあり、それゆえの共感、コミットメントもある。それはネットで匿名を使う/使わないという議論とは違うことだと(私は)思うし、要は〈私〉があるか/ないかだけだろう。だからこそ問題は伊東先生の言うように、それがインターネットという媒体を使わざるを得なくなった私たちにとっては

「日常的に繰り返す行動は癖になる。一度癖になってしまうと、自分でも意識しないところで判断に悪影響を及ぼすようになってしまう」

ことなのだ。それは「存在することの習慣」"the habit of being"になってしまうことで今という時代のリテラシーに直結してしまう。〈私〉の身体に染み付いてしまう。だからこそ若い人たちには〈私〉@○○として書くことを組織的に(バロックの館の1階部分として)大学で教育訓練するのも悪くはないとは思うのだ。でも年寄りはどうしたらいいのだろうか。とりあえずは戦力外ということで無視されたまま死んでしまうんだろうか。年寄りの反逆に期待したい。(笑)

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Written by 桃知利男のプロフィール : 2008年01月10日 08:28: Newer : Older

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コメント

ご無沙汰しております、二流です。
いろいろ興味深い論点を含んでいますね。

まずリンク元NBOnlineに関して。

匿名性についてですが、2chなどの匿名性の代表となっているサイトで、何かしら貢献をしたり活動をしている人間は、あるところを超えると何かしらの名前を付けざるを得ないという経験があります。逆に、それほど貢献していない人が実名を出していても、だれも気にはしないでしょう。彼らは実名でも匿名的に扱われます。就職活動などを見ればお分かりでしょう。

また、実名をあらゆる場所で貫き通すのが良いという見解には疑問が残ります。CSRが関わる議論では少しお門違いかもしれませんが、人がいろいろな@に所属していたとして、ある@で失態を犯した場合、別の@に波及することは普通に起こります。本文でも「社会的全責任」の言葉が出ていました。しかし、なぜ一つの失敗で社会的に死ななければならないのでしょうか。そのような形の制裁には疑問が残ります。現代では残念ながらそのような場合に名誉を回復する手段はごく限られています。

次に、「種」に関して。おっしゃる意見ごもっともだと思います。実際ネットでの匿名性の問題は、「個」がわからないことよりもむしろ「種」が見えないことのほうが大きいと思っています。2ちゃんねるやニコニコ動画で「漏れら」と言ったところで外の人間には認知されません。彼らが種として2ちゃんねらーでありたいと思っても、許されない部分があります。それは、全員が実名になったところで解決されないでしょう。2ちゃんねらーに「種」がないのは、匿名だからではなく、むしろ社会の固定観念のためでしょう。学校が「私@○○」を教えないのは、種が個にとって自明であると「今も思われている」からだと思います。

起きがけで駄文を書き連ねてしまいました。。。

投稿者 niryuu : 2008年01月10日 13:15

>niryuuさん
コメントありがとうございます。

匿名性は〈自由〉の問題と密着していて=偶有性と読み替えることができるのなら、それは極力残したいなと思います。ただ匿名性がanyone=他の誰かでありうるでなく、誰でもない=nobodyだと(私は)つらいですね。

anyoneであることは少しは前向きな可能性があります。そしてなりよりも必然の否定であることで自由です。しかしこれがいつまでもnobodyだとちょっとやりきれないと思います。それは倫理的にではなく精神的にです。

そのためにも種は必要だと思っていますが、その種と私が呼んでいるものが、この手の噺のときに私が必ず持ち出すアーレントの「人間の条件」にあるワークやレイバーなのです。

アーレントはワークやレイバーからコミュニケーションを開放するところに真の人間的なものがあると言うのですが、現実的にはそうはならなかったと(私は)思います。つまり辿り着いたのは〈動物化〉じゃないのかと。動物化の良し悪しは置いておいても、動物化であることで家畜のように私の自由が失われるのなら、私は〈あえて〉信念としてワークやレイバーにコミュニケーションを奉仕させたいと考えています。

>種が個にとって自明であると「今も思われている」からだと思います。

私は今やそれがない、というところから初めていますが、世間は二流さんがおっしゃるようにそう思っているかもしれませんね。その意味ではズレています。まあ思っていても実際には職人的・芸能的・スポーツ的領域等の一部領域を除いては種は生き残ってはいないと思うのです。世間の思う種はたぶん想像界的円環性を持ったよりぬるい組織なのでしょうが、それは〈島宇宙〉とたいして変わりませんね。

種と個の関係は常に対立なんですよ。種は個にとっては矛盾だらけの存在です。匿名性の自由なんてないですから。個は自由でありたいと思う、けれどそれを確実に制限します。

それこそ最初はnobodyです。それも不自由なnobodyです。しかしanyone性はひていしません。そのanyone性とは、種と個の対立から生まれてくる否定即肯定、肯定即否定の運動(つまり訓練を通して身体が技術とか芸とかルールを身につけていくことでわかってくることとしての限界と可能性)です。

それがないと「個@種」にはならないと思うのですね。そういう可能性をマクロ(つまり国家ではなく=これを言うと徴兵制を持ち出す人がいるので)ミクロ領域の可能性として考えています。それが江弘毅のいう「街的」です。

世間が考えている「個@種」の多くは、私の言葉では「種に解けた個」でしかないのですが、それは想像界的接続の延長上にある〈島宇宙〉のようなものでしかなく、個にエッジがたっていません。

つまり種に対立しないで種に溶け込んでしまっていることでnobodyなのだと思います。2chが種的でないと思われているのは、それが世間の思う種よりもさらに種的でない、個と種の関係がない、と映るからではないでしょうか。(良く知らないので憶測ですですみませんが)。

投稿者 momo : 2008年01月10日 16:52

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