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2019年03月03日|お知らせ
アマゾンと書店の決定的な違いを知っていますか?―どちらも本を買うことは同じなのですが。
午前5時20分起床。浅草は晴れ。
本はどこで買うのかといえば、あたしは書店が7割、アマゾンが3割というところか、アマゾンは完全に決め買いである。特に専門書のような、近所の本屋で買おうとしてもお取り寄せになってしまうものならアマゾンは本当に便利だ。
一方、書店には、成り行き買いとでも云う楽しみがあって、特になにを買うと云う目的もなく本屋に入り、背表紙が「あたしを買ってよ」というSound of silenceを聞くのは新地をひやかす如き楽しみがある。
しかしそれよりも明確な、アマゾンと書店の決定的な違いはあり、それは書籍を購入した際に、
「カバーをおかけしますか」
と〈聞いてくる/こない〉にある。アマゾンは絶対に聞いてこないが、書店は常套句のように聞いてくるし、若しくは黙ってカバーをかけてくれる。
あたしは、カバーは基本的にはいらない派なのだけれど(なぜならちゃんとしたものを別に沢山もっているから)、旅の途中に買うものにはカバーをつけてもらうことにしている。(上の写真は今回の岩見沢往復で買った3冊)。
本にカバーをかけるのは、本の保護と云う意味もあるだろうが、それよりも目隠しの意味が大きいのだと思う。
移動中の読書というのは、他ならぬ公衆の面前で自分の楽しみの時空をつくっているようなもので、それは基本的には恥ずかしいことである(はずである)。
その恥ずかしさとは、公/私の区分がないと生まれてこないもので、その区分がなくなれば、恥ずかしいことなどなにもなくなってしまう。
車内で化粧をする人たちがいるけれども、あれは、他ならぬ「私」がないからできることであって、つまりは「われわれ」がない、「みんな」だからこそできるのである。「われわれ」があればあんな恥ずかしいことはできるわけもない。
「旅の恥はかき捨て」というが、これは「われわれ」の中では恥ずかしいことでも、「みんな」のなかでは恥ずかしくもない、という意味であって、「われわれ」(つまり「街的」)がなくなてしまえば、いつでもどこでも「旅の恥はかき捨て」は可能となってしまう。
本のカバーというのは、そういう公/私の区分を前提とした恥ずかしさの緩和剤のようなもので――読書は、混んだ車内で百科事典でも開かない限り、〈他者〉に迷惑をかけることはほとんどないけれど――「個」の時間を〈他者〉に押し付けない、つまりなにを読んでいるのかを〈他者〉には知らせない、という、〈他者〉の存在を前提とした、なかなかいいもの(習慣)だなと(あたしは)思っている。
そしてそれは(たぶん)余計な情報を発信しない、ということにもつながっていて、全くの〈他者〉に「過程」を強制的に見せない、という、日本的な慎み深さ、若しくは「秘すれば花」にもつながっているようにも思う。
まぁ、インターネットは、それとは全く逆の方向に進んでいるのはたしかで、だからアマゾンにはカバーがない。と同様にブログも「個」の時空を「公」に刻んでいるのであって、だからこそ書く技術が必要なんだけれども、それも「われわれ」という感覚を持ち合わせていないと、ちょっと難しいな、と思っている。
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: 2008年02月29日 07:50: Newer
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