FROM MOMOTI.COM

サイボウズOffice10へのバージョンアップをやりませんか。

2019年03月03日|お知らせ



「経済」の“次”に来るものは何か?

吉本隆明午前8時起床。浅草はくもり。[「経済」の“次”に来るものは何か?|イトイ式 コトバの解体新書 ~吉本隆明がくれたホンモノの言葉~|ダイヤモンド・オンライン]を読む。

あたしは、中沢新一さんの「三位一体本」以来、糸井重里さんをあんまり信用していなかったのだけれども、この吉本隆明さんをフィーチャーした「経済」噺は、けっこういけてる、と思う。

あたしは(勝手に)、吉本さんは「街的」な爺だと思っているわけで、なのでこんなとこを平気で言わても戸惑うところはない。曰く、

もともと経済学や経済論は、支配者のために書かれたもの。ときには支配者にとって都合のよいウソが書かれていることもある。学者のように、たとえ支配者でない人が書いたものであったとしても、それは“指導者”としての目線、つまり上からものを見た形で書かれているものがほとんど。しかしそれを読んでいる一般大衆は、その目線の違いに気づかず、「経済とはこういうものだ」とどこかでだまされてしまうのです。

主流の経済学の否定と
生活者の視点

ここでいう「経済学」とか「経済論」とは、第一義的には、今、主流である経済学のことだろう。つまり主流を鵜呑みにするな、と。それはあたしの言葉では「正解の思い込み」の否定、「象徴の一部否定」なんだけれど、勿論「経済学」を否定しているわけではない。なぜなら主流以外の経済学を知らなければ、主流の経済学の否定などできるはずもないからである。

しかし主流以外の経済学を知らなくても、主流の経済学を否定出来るものはあって、それが「街的」であることだ。それは自分の生活の実感として経済をみることであって、つまりは、生活者の視点をもつことである。それは江弘毅流に言えば、お好み焼き屋の経済学であり、あたし的に言えば、ジャスコもヨーカ堂もない、裏浅草の経済学であり、「普遍経済学」である。「街的」な経済に、広義の自営業者である「」や「われわれ」以外の支配者はいないのである。

経済

経済」という語彙は、福沢諭吉の創作で、political economy の訳として、経世済民経国済民)という言葉をつくり、それを更に略して「経済」という言葉をつくった。これをして economy の訳語としたところから(支配者のための経済学は)始まっている(たぶん)。

つまり、「経済」という言葉は、明治の発明品であって、その基軸が国(支配者のための経済学)であるのは political economy であることで、当然なのだろうと思う。(明治という近代化の時代に)徳川幕府に代わって国を治めるためには、生きるために食べなければならない国民の、その生きるための(近代化された)術を考えるのは、新しい支配者(明治政府)の仕事なのであって、つまり経済学はその(統治の)技術であることで、『経済学や経済論は、支配者のために書かれたもの』として始まったのである。

明治

ボロメオの結び目あたしはここで、またボロメオの結び目を持ち出すのだけれど(こういう思考方法しかできないのよ)、明治という時代は、象徴界に「天皇」を配置しようとした(プロセスの)時代だった、と言えるだろう。

そのためには、メディアや科学や学問も総動員で使われ、明治の(主流の)経済学(富国強兵、殖産興業)は、「天皇」が象徴界であるための技術だ、と考えていいだろう。つまり『経済学や経済論は、(政治的な)支配者のために書かれたもの』なのである。

戦後の高度成長期

そして昭和の大戦争が終わり、その後に起きたのは、象徴界の置き換え作業だ。それは「天皇」の代わりに、なにを象徴界に置こうか、ということであって、そこで「民主主義」なんだけれど、民主主義の建前は、象徴界の主は、国民=「みんな」なのである。

しかし象徴界に「みんな」(=あなたのことだよ)、がいることなど(当時は)あり得ないわけで(やがて平成の時代に「おれさま」は生まれるのだが)、「みんな」の機能代替として象徴界に居座ったのが民主主義という思想であり、自由主義経済の経済学や経済論ってことでいいんだろう。

なにしろ、国を基軸にするなら、国を治めるために、生きるために食べなければならない国民の、その生きる術を考えるのは、支配者=「みんな」の仕事なのだ。しかし「みんな」は食べることに、生きるのに忙しくて、そんなことを考えることなど、できるわけがないのである。

だから「みんな」の代わりに考える「政治」の仕組みは、民主主義に不可欠なものとなるのだけれども、では、その支配者である「みんな」が、象徴界に存在する(ように思える)経済学とはなんだろうか、と「政治」は考えるしかないのである。

そこでマルクス経済学は元気だったわけだ。しかし自由主義経済圏である日本のそれは、共産主義と資本主義のハイブリッドのような社会主義国家のようなものが理想なのであって、戦後の開発主義は、見事な官僚社会主義国家(しかし私有財産性であることで自由主義経済である)をつくった。明治につくられた共同体の残余を十分に残しながら。

そこでの主流はケインズ経済学だ。それも『経済学や経済論は、(政治的)支配者のために書かれたもの』であるだろうし(たぶん)、それは「官僚」を象徴界の機能代替とするには十分に機能した。つまり支配者は(機能代替的に)「官僚」である、と。そしてその仕組みは、平成の時代にも機能していたりすることで、時々(贈収賄や官製談合のような)事件になったりもするのはご存じのとおりだ。

自己責任の経済学と政治的経済学の終焉
しかし経済的支配者のための経済学も終焉する

それが何故事件になるのかは、今まで散々書いてきたので端折るが、つまりは(いまの時代において)、官僚主導の経済学は、既に支配者のための経済学ではなくなってしまっている、ということだろう。

つまり、楽しかったバブルを最後に、官僚主導の、開発主義の経済学は終焉を迎え、時代はグローバル経済(金融資本主義)のものとなった、ということだ(「Web化する現実」の最初の段階だね)。ここでの主流は新古典主義の経済学であって、それはたとえば、竹中-小泉政権を支えた『経済学や経済論は、支配者のために書かれたもの』だと考えれば理解しやすいだろう。

しかしこの経済学が繰り返し強調したことは、いつでも官僚制の腐敗とそれに代わる自己責任であって、(そのことで)政治的支配者の経済学は(自ら)破綻しはじめたのだ。

官僚主義、開発主義を否定すれば、象徴界はまた「みんな」のものとなる。そこで支配者であるためには、『生きるために食べなければならない国民の、その生きる術を』考えることを放棄してはならないのだが、新古典主義の経済学は、小さな政府を標榜することで、それを「考える」こと(支配者の仕事)を放棄するのである。

そして官僚の腐敗と自己責任ばかりが繰り返し強調されることとなる(なぜならそれ以外に、彼らには国民の支持を得る方法がないからだ=嫉妬の政治)。

「みんな」、官僚になんかに頼らずに、自分で考えて食べてね、と、それが「自由」というものだよ、と。つまりはリバタリアニズムだわね。ここで、政治的支配者のための経済学は破綻したのだ(だから官僚も、それと一体でしかなかった政治家も経済問題に関して全く無能となった)。

そしてそこで機能する経済学は、経済的な支配者のための経済学でしかなくなる。それにも、吉本隆明さんがいうように、『支配者にとって都合のよいウソが書かれていることもある』。例えば「トリクルダウン理論」。

そして、『金融工学などといった、わけのわからない数字に欲情するだけのようなシステムを生み出す社会は、もう終わりに近づいていると感じます。』と糸井重里さんはいうのだけれど、それは当たっているんじゃないのか、とあたしは思うわけで、金融資本主義という経済学の終焉は意外と早いのかもしれない。

もう1カ月ほど前の話になるが、6月10日、イギリス最大の銀行であるHSBC(香港上海銀行)の会長で、英銀行協会の会長も務めるスティーブン・グリーンが、銀行協会の年次総会での講演の中で、以下のように述べた。

「(米英の銀行が)この5年間展開してきた、レバレッジを拡大すればするほど儲かる金融ビジネスのモデルは、破綻した。バブル崩壊という循環的な変化ではなく、ビジネスモデル自体の破綻である」「今後は、以前のような利益率の高い時代は終わる」「銀行は(レバレッジの拡大ではなく)顧客との信頼関係や、運用の効率化、急成長しそうな市場への参入といった(昔ながらの)基本的な経営姿勢に戻る必要がある」(関連記事from [米英金融革命の終わり @田中宇

「経済」の“次”に来るものは何か?

糸井重里さんはこう言っている。

経済の“次”に来るものは何なのか――その答えは僕もまだはっきりと見えているわけではありません。ただ現在のような、金融工学などといった、わけのわからない数字に欲情するだけのようなシステムを生み出す社会は、もう終わりに近づいていると感じます。“次の時代を担うもの”は意外と目に見えない、普遍的なものなのかもしれない。「信仰」や「心」、「信念」といったものに僕はその可能性を感じています。

答えは、はっきりと見えているわけではない、というのは普遍経済学正直だな、と思う。そしてあたしはまた、普遍経済学のトポロジーを持ち出すのだが、それはあたしもまた、糸井さんと同じような問題意識をもって「経済」を考えてきて、[「経済」の“次”に来るもの]というものはない、と思うからだ。

ただ、象徴界に存在してしまっている「交換の原理」を、けん制するシステムが機能するか否か、そしてその機能の具合(案配)で、経済というものは姿(性質)を変えるものなのだ、と(あたしは)考えている。

それは、もちろん「贈与」と「純粋贈与」のことだ。とくに純粋贈与は、普遍的なものであることで、それを糸井さんは『“次の時代を担うもの”は意外と目に見えない、普遍的なものなのかもしれない。「信仰」や「心」、「信念」といったものに僕はその可能性を感じています。』と言っているのだ、と思う。そして時代は、その方向へ進んでいる、とあたしも考えている。それが「Web化する現実」の進化系だろ。

Written by 桃知利男のプロフィール : 2008年07月19日 11:58: Newer : Older

このエントリーのトラックバックURL

https://www.momoti.com/mt/mt-tb.cgi/2200

Listed below are links to weblogs that reference

「経済」の“次”に来るものは何か? from モモログ

トラックバック

トリクルダウン理論 流行 from 注目!最新サッカー速報 (2009年02月27日 17:51) [生活]マンゴ? パプアの場合、日本よりも「見えやすい形」で、格差が存在しています。パプアで、「トリクルダウン理論」を根拠とした政策について耳にしても、... ...