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2019年03月03日|お知らせ



『日本の国宝、最初はこんな色だった』 小林泰三を読む。

日本の国宝、最初はこんな色だった (光文社新書)

日本の国宝、最初はこんな色だった (光文社新書)

小林泰三(著)
2008年10月20日
光文社
1000円+税

「あらかじめ失われたモノ」を《それは=かつて=あった》に視覚化すること

それゆえ、「写真」のノエマの名は、つぎのようなものとなろう。すなわち、《それは=かつて=あった》、あるいは「手に負えないもの」である。 (ロラン・バルト:『明るい部屋―写真についての覚書』:p94)

絵画や彫刻は写真のノエマをゆうゆうと超えてしまう※1。しかしそれでさえ今あたしがなんらかのかたちで見ることができなければ、その創造性を楽しむことは不可能なことだ。

この本の面白さは、その不可能を可能にすること、つまり「あらかじめ失われたモノ」(今あたしが見ることのできないモノ)をデジタル復元する――《それは=かつて=あった》モノ(つまりは天然色のデジタルな写真なんだけれども)にする、というべらぼうなひねりだ。※2

紹介されている東大寺大仏殿、地獄草紙、平治物語絵巻、檜図屏風、花下遊楽図屏風はいずれもビビットによみがえり、あたしの「古い美術品」に対する固定概念を覆してくれる。それは快感でさえある。

参加する視線

だからといって本書はデジタル復元のノウハウ書ではなく、主題は著者である小林泰三さんが、これらのデジタル復元を通して見えてきたモノであり、それを小林さんは「参加する視線」と呼んでいる。※3

(東大寺大仏殿は)見る者の視線は順路をたどりながら、やがて仏と一体になるゴールへと昇華する。これは鑑賞者の視線が積極的に堂内を駆け巡ることによって生まれる、高度なコミュニケーションである。このコミュニケーション術を「参加する視線」と呼んで本書のキーワードにしたい。(p52)

「参加する視線」というはそのものずばり「共同体性」のことだろうが、だとすれば東大寺大仏殿にはそれを感じるけれど(とても政治的に生み出されたアウラを含んで)、他の作品には「参加する」ダイナミズムをあんまり感じない。それらはとても個人的なものに思えるし、そもそも(庶民が)参加しようにも参加できないところにあったものだろう。

ただ小林さんがデジタル復元をする過程で「参加する視線」(作者に近づく)を感じるのは当然のことだとは思うし、それは素晴らしい鑑賞方法だとは思うが。※4

象徴の貧困

「参加する視線」は現在のマンガにも生きていると小林さんはいう※5。それは「想像界」で遊ぶことが得意なあたしらの視線(理解の方法)なのだと(あたしは)直感的に思うし、あたしらの原初抑圧不全(生まれながらの「象徴の貧困」)に由来しているものだとあたしは考えてきた。

さらに、スティグレールのいう「みんな」とは、日本語でいえば「世間」のことであり、「社会」ではないだろう。であれば、私たち日本人は、「世間」が象徴界にあることには、慣れっこなのである。それは確かに「象徴の貧困」だし、近代化先進国から見れば、個の未成熟であり、社会の未成熟であり、近代化の未熟でしかない。しかしそこで生きる「われわれ」は、西欧の近代化とは違った、長い産業化の歴史(過去把持)を持つことで、「象徴の貧困」における生き方にミーム的に適応してきた。※6

あたしは「音読み(漢字)が訓読み(かな)に注釈を与える」(@ジャック・ラカン)※7を引用し、挙げ句のはてに 「解釈は、貸借を満たすために、快速でなければなりません。」(@ジャック・ラカン)を援用しているのは、

「解釈は、貸借を満たすために、快速でなければなりません。」(@ジャック・ラカン)を引用するのは、解釈はトポロジックなものであり、色と形で理解できるとき、それはうだうだとテクストの意味を追いかけていくよりもずっと速い、という程度の理解であって、つまり〈他者〉のテクストを読んでいても、それがトポロジックに、色と形として理解されるとき、解釈は快速だといっている。※8

というよな出鱈目であり、つまりあたしらは「かたち」で理解することをずっと得意技としてきたんだと。※9 そして、

その快速には多分に無意識が機能しているなら写真での伝達は非論理的に快速なのである(たぶん)。しかし機械的な創造性の時代に写真が真実を写しているなんて今やだれも思うこともなく、トイデジやデジクロはそのウソっぽさを非日常として強調する。※8

なのでデジタル復元の信憑性にはあんまり感心もなく、つまりあたしの興味は、この復元されたもの(復元の過程もだね)から何が見えるかよりも、この復元されたもの(デジタルデータ)はなんなのだろうかというところに向かってしまう。

Beig Digital

それは美術品には違いなく、けれどベンヤミンのいうアウラは消え、ただ展示的価値が礼拝的価値を駆逐するのを加速するものだろう。※10

つまり(デジタル復元された)作品間にヒエラルキーはなくなり、ただの展示品として、そしてデジタルデータとしてフラットなのである(小林さんのことばだと「お金のかからないデジタル復元」である、たぶん)。

デジタル復元されたものがデジタルデータとして流通するようになれば、あたし(ら)はそれを自由に加工し始めるにちがいなく(それもマッシュアップ的に、ハイブリッドとして、データベース的に)、本書は既に(ある程度)そこに足を突っ込んでいるように思う(それに小林さんも気づいてはいるとは思う)。

複製技術時代の芸術は来るべき時代を用意するのか――たぶんするだろう、というか複製時代の技術の進展が来るべき時代の芸術を用意しているのだろう。それもBeig Digitalとして。

ただ繰り返すがそれにアウラはない(ことであたしはそれを愛することはできないだろう)。そんな思いを強くさせる一冊だが芸術はすでにこんな思考の域にあることを気づかされた面白い本である。ということで午前7時起床。浅草はくもり。暑くなるらしい。

※注記

  1. 「存在するモノ」を真似て描いたりつくったりするだけではないという意味で。
  2. デジタル復元とはいっても全く手がかりがなければ復元できないのは当然のことでだが、つまりそれは写真のノエマを超えない。しかし少しでも手がかりがあれば、失われたものを、《それは=かつて=あった》にできる面白さったらない。
  3. これを小林泰三さんはロラン・バルトのいう「表徴」だといっている。
    『実はこの「参加する視線」は、日本美術のための鑑賞法ではない。これは一種のコミュニケーション術であり、ライフスタイルでもある。あるフランス人が、日本人のこのコミュニケーションを鋭く指摘している。二十世紀の思想家ロラン・バルトである。』 本書:p195 参照
    これにはあたしも賛同する。あたしの「表徴」の理解は 宗左近さん。(『表徴の帝国』 ロラン・バルト) 参照。つまり日本人の創造性。
  4. けれどその「技術」は(まだ)誰もができるものではないことで、東大寺大仏殿にはある「参加する視線」とは違うものであるように思える。
  5. あたしはマンガよりもむしろデジタルなゲームの世界にあると思うが。 
  6. 象徴の貧困。(ベルナール・スティグレール) 参照
  7. 左脳で虫の音を聞く、若しくは「音読み(漢字)が訓読み(かな)に注釈を与える」(ジャック・ラカン) 参照
  8. なんちゃってデジタルクロスプロセスで遊ぶ。(オンライン画像編集サイト Picnik) 参照
  9. ギャル文字―の構造 参照
  10. この場合の礼拝的価値とは元のあった場所という意味だけではなく美術館に展示されていることも含めることになるだろう。なので展示的価値とは、自分の家の壁に飾ったり、パソコンの壁紙でみたり、ブログに貼り付けてみたり、まあその辺で消耗品のように扱えるという意味となるだろう。

Written by 桃知利男のプロフィール : 2009年06月23日 07:59: Newer : Older

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コメント

デジタル復元師の小林泰三です。
この度は「日本の国宝、最初はこんな色だった」をお買い上げいただき、また貴重な感想もいただき、誠にありがとうございました。

特に、「参加する視線」について哲学的見地から論じてらっしゃる点に敬服いたしました。
自分が言っていることが、必ず哲学的にも言っている論があるはずで、それがどういう言葉で表現され、その考え方は現代思想の中でどんな位置を占めるのかが、気になっていたのです。

桃知様のご感想をきっかけに、ちょっとずつではありますが、デジタル復元と哲学の関係性が見えてきているような気がします。
誠にありがとうございます。

桃知様の名前は出しませんが、ありがたいご感想をいただいた、という日記をブログに上げました。
もしよろしかったら、
http;//www.kobabi.com
から「ブログ」を選んで、ご覧ください。

投稿者 小林泰三 : 2009年06月30日 00:30

>小林泰三さま

筆者さま自らのコメントありがとうございます。
ブログも読まさせていただきました。
過分のお取りはからいありがとうございます。

あたしの書いていることはあたしの個人的興味でしかなく、これが哲学的なのか現代思想的なのかはわかりませんが、Digitalを扱う者として、Digitalを考えている者として、小林さんの仕事には非常に興味を持っています。

これからもさらなるデジタル復元で、あたしたちを驚かせてください。
今後とも宜しくお願いいたします。

投稿者 ももち : 2009年06月30日 15:54

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