桃知商店よりのお知らせ

左脳で虫の音を聞く、若しくは「音読み(漢字)が訓読み(かな)に注釈を与える」(ジャック・ラカン)

日本人の右脳的な左脳
日本人の右脳的な左脳


午前中から外出して午後3時に戻る。外はすっかり夏の日差しで、帰りがけにスイカを買った。メールを読めば、増田悦佐さんからの

昔読んだことなので出典も定かでない雑学ですが、古代ギリシャ語も右脳刺激型の言語だった、だから世界中で古代ギリシャ人と日本人だけが虫の音を雑音ではなく、音楽と聞く風流に恵まれたという説については、どう思われますか?

というくだりに鋭く反応するあたし。

(古代ギリシャ人のことは知らないが)昔これについてはさんざんセミナーで話したし、たぶんこのサイトにも何か書いたよな、とGoogelでサイト内検索をする。検索言語は「虫の音」。1件のヒットは2006年5月1日の【左脳で虫の音を聞く】で、読めば今よりもずっと理屈っぽいことを書いているな、と。またそれを書くつもりもないのだが、あたし的な理解をまとめてみる。

音読み(漢字)が訓読み(かな)に注釈を与える

問題 「」内のひらがなを漢字に直しなさい、というのは、あたしの2年前のネタだが、たぶん初めて見る人の方が多いだろう。

問1
A 新聞を「よむ」
B 和歌を「よむ」

問4
A 普段よりも数倍「おおい」警備員
B 「おおい」を掛ける
問2
A 「きのう」障害
B 建設業「きのう」の進め
C 「きのう」彼に会った
問5
A 川に橋を「かける」
B 野を「かける」馬
C 説得力に「かける」
問3
A 小笠原諸島の「とうみん」
B 熊が「とうみん」からさめる

解答

問1
A 新聞を読む
B 和歌を詠む
問4
A 普段よりも数倍多い警備員
B 覆いを掛ける
問2
A 機能障害
B 建設業帰農の進め
C 昨日彼に会った
問5
A 川に橋を架ける
B 野を駆ける馬
C 説得力に欠ける
問3
A 小笠原諸島の島民
B 熊が冬眠からさめる

漢字熟語、たとえば「島民」(とうみん)は、島(しま)の民(たみ)という具合に、音読み(漢字)に訓読み(かな)が注釈を与えていると言いたい誘惑に駆られる。「機能」の「機」は「しかけ・ばねじかけ」や「はたらき」のある道具のことであり、そのはたらき(能)を機能という、という具合にである。

しかしジャック・ラカンが日本語を母国語をする人々に「精神分析は必要ない」と言う時、これは逆なのだ。漢字(音読み)の「形」(象形)こそが、かな(訓読み)に注釈を与えている。それはパロール(話し言葉)において顕著だと。

「昨日(きのう)」は音読みではない。音読みなら「さくじつ」である。これは「熟字訓(常用漢字表『付表』にl記されているもの)」である。「昨」の訓読みはこれ一字で「きのう」である。

しかしこの場合でも、「きのう彼に会った」と言う時、「昨日」は「きのう」という音とともに漢字の表記「昨日」(の形)が思い起こされなくては理解できない。「新聞をよむ」の「読む」、「和歌をよむ」の「詠む」もまた然り。設問5の「かける」もすべてその類である。

日本語の構造

つまり文字の「形」=象形=漢字(つまり音読み)が訓読み(かな)に注釈を与えているのであって、それが(あたしの言う)「日本語の構造」である。

日本語の構造

フロイトは無意識を象形文字として捉え、ラカンはこれを踏まえて、無意識=象形文字を常に露出させている日本語を使う者(つまり日本人)には、精神分析は不要だと言ったわけだ。曰く、

どこの国にしても、それが方言ででもなければ、自分の国語のなかで支那語を話すなどという幸運はもちませんし、なによりも─―もっと強調すべき点ですが―─、それが断え間なく思考から、つまり無意識から言葉[パロール]への距離を触知可能にするほど未知の国語から文字を借用したなどということはないのです。(『エクリ』序文「日本の読者に寄せて」)

つまりラカンが「音読み(漢字)が訓読み(かな)に注釈を与える」と言うとき、あたしらの脳みそは右脳的に機能しているということだ。右脳は、ロジックではなく、イメージ(形や空間や音)で対象を捉えようとするのだが、右脳がほ乳類脳やは虫類脳と結びついていることで無意識が表出してしまう。それは日本人の精神性や創造性の構造であるだろう。(たぶん)

PCM(偏執症的批判方法)

これはサルバドール・ダリPCM(偏執症的批判方法)を無意識にやっているようなものだ。

PCMは、概念的リサイクル活動によって、すり切れ消耗した世界の中身がまるでウランのように再びエネルギーを充填され豊かさを取り戻すことを、そして贋の事実とねつ造された証拠の永遠に新たな生産作業がたんに解釈行為のみによって可能になることを約束する。(レム・コールハース:『錯乱のニューヨーク (ちくま学芸文庫)』:p400)

つまりそれはデータベース消費(@東浩紀)のようなもので、あたしが「おたく的才能」と呼んでいるものだ。ダダイストシュルレアリストたちが、様々な方法を駆使して開発しようとした無意識世界に、あたしたち(日本人=日本語を使って考え話す人)は、とうの昔から言語的に接続していたのである。

漢字の中枢

さらに日本人には、「漢字の中枢」があると言われていて(例えば、http://www.brh.co.jp/seimeishi/1993-2002/05/ex_1.html)それは左脳にある。つまり日本人の左脳は右脳的に機能することを意味しているのだが、それも日本語の構造故に起きた変化ではないだろうか。(ミームによるジーンへの働きかけとして)。

つまり、日本人の脳みそ全体は、右脳的に機能しやすい、と考えていいだろう。そのおかげで虫の音を(左脳で認知しても)雑音ではなく、音楽として認知できたりするわけで、逆に言えば、左脳が左脳として機能しづらいので論理的な思考力は弱い。(だからPCMなのだけれども)。

想像力

創造性のトポロジーそんなもので、あたしらの脳みそは、データベース消費(マッシュアップ、ハイブリッド、ブリコラージュ)には向いているのであって、人まねと言われようがなんであろうが、余所からデータを得て、それをデコードし、またエンコードさせるとうまいのだわ。

それで、その(日本人的な)想像力を弱めようとするなら、日本語を使わせなければよいのだ。具体的には、常用漢字を減らしてしまえばよいし、語彙も減らしてしまえばよい。(あたしは文語文を読めなくなった途端に日本人は馬鹿になったと思っている)。

それだけで、日本人の想像力の一端は損なわれるだろう。なにせにPCMは、《解釈行為のみによって可能になる》わけだから、語彙の欠乏は解釈の幅を狭めてしまう。それは至極当たり前のことだと云爾

Comments [3]

No.1

月本洋さんの「日本人の脳に主語はいらない」からの
受け売りなのですが、

日本人が虫の音を左脳で、単なる雑音ではなく、音楽としてあるいは言語として聞いてしまうのは、日本人の脳が右脳的というより、
虫の音が、母音の音と似ているため、日本語を聞くように左脳で聞いてしまう(日本語は母音を多く含む言語であるために、母音と音が似ている虫の音を言語として聞いてしまう)からで、
逆に西洋人の多くが虫の音を単なる雑音としてしか捉える事ができないのは、西洋の言語の多くが、母音よりも子音を多く含むものであるため、母音と似た虫の音を言語としてとらえることができず、すなわち左脳で捕まえる事ができず、右脳で単なる音としてしかつむことができないからです。

つまりこの場合、日本人の脳の方が純粋に左脳を使っているということです。

論理性については、日本人の論理性が弱いとは思わなくて、日本語においては論理性が表面に現れにくいからだと考えています。
逆に言えば、西洋語は論理性を明確にした形でしか表現できな
いので、論理性が強いように見えるのではないかと。

No.2

>コーギーさん

毎度です。虫の音母音説ですか。
それもまた面白いですし、つまりは左脳に日本語が刷り込まれていることで可能なことでしょうね。

つまりそれも日本語故の虫の音音楽説なわけで、あたし的には違和感はありません。たぶんその通りだと思います。

日本語の論理性表現の弱さは、書く人間として(あたし自身が)痛感しているものですが、

>日本語においては論理性が表面に現れにくいからだと

たぶんそうなんでしょう。そういう論理性が表面に現れにくい言葉で、原初抑圧されたあげくに、考えて表現しているわけですから、書かれたものは、なかなか論理的にはなりませんし、書いている本人も(西欧的な意味でいえば)理論的な人ではありませんね。

あたし自信は論理的に考えている、と思っていますが、出て行くるテクストはどうもあやしいわけです。(しかしそれでもそこそこ通じたりしているのを面白がっていたりするわけですが)。

PCMといっているのはそういうことで、そこにあるのは、(たぶん)超論理性です。それはシュルレアリスムが求めた超現実が現実離れではなく、無意識に接続することで現実過ぎる程の現実を求めようとしたように、無意識が働くことで機能する(超)論理性です。いってみればそれは日本語のローカルルールであって、西欧的なロジックとは違いますね。(たぶん)

それは、いわなくてもわかる、というようなものでしょうか。形式合理性や理論合理性(マニュアル)とはちがうものでしょう。このあたりがあたしの超合理性の考え方の基礎になっています。

つまりあたしたちは、文字で表現されたものの文脈の間を読むというか、その裏を読むというようなことが結構得意なわけで、そんな曖昧でも通じてしまう言語を使うことで、超合理性も可能なんだろうなと。

あたしはそれを利点だと思っていることは言うまでもなく、だからこうして日本語で毎日書いているわけですけれど、それは、逆に誤解されることも多いのですが、これは表裏ですね。だからといって他の言語で書けと言われても、書けるはずもないのですし。(笑)

No.3

桃知さん、長文なコメントありがとうございました。

月本さんの本を読んだばかりだったので、
『左脳で虫の音を聞く』というタイトルを見て、おもわず、
おぉ、と声をあげ、コメントしてしまいました。
要は単に、仕入れたばかりの話を誰かにしてみたかっただけです。

左脳でロッジクを、右脳で音楽を司るとするならば、
日本人の左脳は右脳的だというのは、私もなるほどと思います。

桃知さんのテクストって、ひとつの記事のなかに、
いくつもの水流が流れていて、それがテクスト全体として大きな水脈をなしているというのが私の印象です。
ですから桃知さんを知ろうと思えば、つぎつぎとワープを繰り返すことになり、だからロングテールになるんだと思います。


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