「うめきたに大仏を!」
午前7時30分起床。浅草はくもり。古い(2011年11月号の)『大阪人』があったので、ペラっとページをめくれば、そこに(ちゃんと書けばP2からだが)「うめきたに大仏を!」、という内田樹先生のコラムが載っていたのだ。「うめきた大仏」は『辺境ラジオ』を紹介した時に、あたしが大笑いした件で載せたのだが、なんとその1年も前に、(内田先生によって)紹介されていたのである。
あたしは、読んだはずなのに忘れていたのか、それともまったく読まなかったのか、どちらかなのなのだが、この『大阪人』はさんざん読んだはずなので、たぶん忘れていたのだろう、というか、たいして意識にとどまるものではなかったのだろう。
しかし(内田樹先生ではないが)今更、「うめきた」には大仏であるな、と思う。
これはどんなに「交換」の装置(経済理論的に立証されたビル)を建ててもだめなのである。なぜだめかは「うめきた」の再開発の指揮をとっている人達にはわからないだろうが、そんなに過剰流動性を増やしてどうするのだろう。
一見、無駄とも思えるような「贈与」の関係こそ、「大阪」にはいいのである。大仏は、存在自体が「贈与」であり、下手をすれば「純粋贈与」の存在である。
例えば毎日100円ずつお賽銭をあげて、それだけで年間36500円になるが、見返りは、他人が見ればなにもなにも無いのも同然であり、それは本人にしかわからないものであり、若しかしたら本人もなんだかわからないものであり、そうなるとそれは、立派な「純粋贈与」である。
この「本人しかわからないもの(もしかしたら本人もわからないもの)」こそ、今「大阪」に欲しい「元気印」なのではないだろか。余所から見ていて、いくらもうかったか、などと計算ができる、というのは、まあ東京に任せとけば良いのである(除く、浅草浅草寺)。
こんな「贈与」がビルの谷間に寝転がっていたら(すでに寝転がっていることを想定しているのだが)、それだけで素晴らしいのだし、東京スカイツリーよりも、はるかに凄い「贈与」になるに違いないのだ。