飲み食い世界一の大阪 そして神戸。なのにあなたは京都へゆくの

飲み食い世界一の大阪 そして神戸。なのにあなたは京都へゆくの

江 弘毅(箸)

2013年1月6日
ミシマ社
1600円+税


江弘毅は今日も元気で飲み食い、そして考えているのだろうか

午前5時40分起床。浅草はくもり。ミシマ社からなにか送られて来た、と思えば、「な、なんだこれは」、と大袈裟に驚くあたしの手元には、『飲み食い世界一の大阪 そして神戸。なのにあなたは京都へゆくの』、という、なんだか訳の分からない名前が付けられた本があった。

江弘毅この妙にややこしい表題のこの本は、一読すれば、まさしく、『飲み食い世界一の大阪 そして神戸。なのにあなたは京都へいくの』、と、まるでバッキー井上の著作のように、そして内容もその通りなのであって、こう付けるしかない、と思える題名なである。

しかし世界一、というからには、大阪、神戸、そして京都と、三箇所も並べて、どこが世界一なんだ、と思うのだが、著者の江弘毅にとっては、そんなのはお構いなしなのであって、だから東京も少しだけ書いてくれている(あたしも少しでてくる、ありがとう)。

けれどこの本は、『「街的」ということ――お好み焼き屋は街の学校だ』を読んだときとは、また違った感動があるのだが、それがあたしには嬉しく思える。

文章を読む時、考えているな、と思える作者が「見える」のは常であるが、本作における江弘毅も、また「見える」のである。ただ、その「見える」が、ただ「見える」のでなく、嘔吐を吐きながらも、のたうちまわって、訳の分からないことを書いている江弘毅じゃなく、妙に文章が落ち着いた、作家としての江弘毅が「見える」のだ。

その文体は、まるで京都のお寺さんの仏像のような規律で書かれているのであって、「マラルメの詩」か、と思うような文体なのだが、それは文体だけじゃなく、すべてにおいて優しく響くのだ。それは、食べ物に対しての、そして「街」に対しての、深い愛情からだろうが、そんな江弘毅の書く文章が嫌いか、と言えば、全然そんなことはなくて、むしろ好きだ、というあたしがいる。

まったくの同世代、あたしは3年5ヶ月間、以前とは全く違う生活を送っていたけれど、江弘毅は、元気に飲んで、食って、考えていたのだから、いや、ホントに羨ましい。

半分だけでも、その食べ物と「街」に対する愛情をお裾分けして欲しいものなのだが、でも、キアムスはどこでもやってくるのであり、いや、日頃からアジールなのだから、もっとアジールとしての江浩紀も読んでもいいぞ、と思うのは、『京都でハモ?それがどないしてん?』に惹かれてしまった自分がいるからだろう(あたしはハモは食べない東京の下町に住んでいるが)。

この本、見つけたら是非に読んでみるべし、なのだが、江弘毅は今日も元気で飲み食い、そして考えているのだろうか、と思う、と何故か心底楽しいのだ。