言語別で見ると、第4四半期に最も多かったのは日本語のブログだった。日本語ブログがブログ全体に占める割合は37%で、前四半期の33%から拡大。シェアを39%から36%に落とした英語ブログを追い抜いた。またトップ10に新たにペルシャ語がランクインした。 [Tmedia News:世界で最も多いのは日本語ブログ――Technorati調査]

言語別のブログの割合
言語別のブログの割合


午前6時起床。岩見沢は晴れ。あたしはセミナー等で、ブログの言語シェアでは、日本語のブログは英語についで2番目に多い、という説明をしてきた。

昨日、ちょっと気になるところがあって調べてみたら、[世界で最も多いのは日本語ブログ]ということになっていたらしい。

それは2007年4月6日付けの記事なので、ここ半年ほど誤ったデータではなしをしていたことになる。あたしのはなしを聞いて、ああ、2番目なのね、と信じていた皆さん、ごめんなさいなのである。

と言ってもそれは、2番目でしかない、と言う意味ではなく、ほぼ英語と同じぐらい日本語ブログは多い、という意味であって、つまり日本人というのはブログ好きなのよ、ということだ。

(写真:ロラン・バルト:『彼自身によるロラン・バルト』:p25―鏡像段階「お前が、これだよ」―) それは、インターネットは(私たち日本人には)贈与共同体(母系的、もしくはへその緒の接続先)的に存在する、ということだと私は考えている。

つまり[鏡像としてのWeb]なのである。

へその緒の接続先としてのWeb

私のいう、Webは鏡像である、というのは、Webにへその緒がつながっている、というのと同意でる。

つまり[ボロメオの結び目]でいう「想像界」(お母ちゃんとへその緒で繋がっていた幸せな記憶の接続先)がWebには機能代替的にあるということだ。

ボロメオの結び目それは簡単に言ってしまえば「つながりたい」という気持ちの受け皿のようなもので、ウェブはそこへ収斂していくと考えている。(子宮的構造

じゃなければ、SNSもケータイもこんなに普及しない。

私たちの「こころの構造」なんて簡単に変わるものではない。

人間がお母ちゃんから生まれ、おっぱいを飲んで育つものである限り、「贈与」は消えない。

そして日本語の去勢不全はそれをさらに強調する。[日本語の構造。(縦に書け!)]

環境が無理やり「贈与」を破壊しようとすれば、「こころの構造」が「贈与」の機能代替を求めるのは当然のことだ。

つまりインターネットは、我々日本語を使う者の贈与共同体(母系的、もしくはへその緒の接続先)の機能代替のひとつとして存在していることで、世界で最も多いのは日本語ブログなのだろう。(今はね)。