『共同幻想論』の骨格
『共同幻想論』の骨格
吉本隆明:『日本語のゆくえ』:p123~124をトポロジーとしてまとめてみたもの
日本語のゆくえ |
午前8時起床。浅草は晴れ。昨晩、吉本隆明の『日本語のゆくえ』を読んだ。冒頭の図はp123~124の『共同幻想論』の骨格をトポロジーとしてまとめてみたものだが、吉本隆明は、「では、芸術はどこに入るのか。あるいは文学はどこに入るのか。」と問うのだ。
そして「対幻想と個人幻想の間に問題の根底があると考えられます」というのだが、それはあたしにとっては当然のことでしかなく、なぜなら「考える技術」のトポロジーがそれだからだ。(右図)
つまり、個人幻想は統合関連に、対幻想は並列関連に、共同幻想は内的関連(象徴)に対応し、ボロメオの結び目に照らせば、個人幻想は現実界に、対幻想は想像界に、共同幻想は象徴界に対応する。
まあ、吉本隆明がいいたいのは、共同幻想(つまり国家)のみでできてい
マルクスの自然哲学
そして別の箇所ではマルクスの自然哲学をいう(p71~73)。それをまとめてしまえば、それはバタイユの普遍経済学のトポロジーそのものとなる。
普遍経済学
マルクスは、「人間が精神的ないし身体的に自然に働きかけると、自然は価値化する」といっています。人間が働きかけると、ただの自然ではなくなって「価値的自然」になる。人間の延長線になって、人間の役に立つような価値を生じる。したがってそれは人間の身体の延長線になると、マルクスはそこまではいっています。/ではそのとき人間はどうなるかというと、人間は逆に自然になっちゃうんだといっています。/(中略)……どこをどう考えても、これだけはまだ生きつづけるよと思っています。(p71~73)
つまり人間を「贈与」、自然を「純粋贈与」と読みかえればあたしの語彙でも読めるということだ。
「無」に塗りつぶされた詩
そして吉本隆明はいまの若い人たちの詩を評してこういうのだ。
いってみれば、「過去」もない。「未来」もない。では「現在」があるかというと、その現在もなんといっていいか見当もつかない「無」なのです。(p206)
それは「自然」への働きかけ、自然そのものがなくなってしまったからだ、と吉本は考えているようだけれども(結論はしていない、わからないから考えるといっている)、つまりは純粋贈与との贈与の関係がないってことなんだろうな、とあたしは思った。それは都合のよい読み方かもしれないが、(吉本があんまりよくは思っていない)共同幻想=象徴界の貧困ゆえじゃないだろうか。
あたしは日本語のしばり(去勢)は強いほうがよいと考えているし、「考える技術」でも象徴は一部否定するものなのであって、創造性というのは、そういう象徴のしばりと、個によるしばりとの肯定/即否定、否定/即肯定的関係から生まれると思っている。つまり創造性は象徴界がある程度しっかりしていないと機能しないのだ。吉本が褒める文学というのは、そういう時代のものだろう。
しかしいまや象徴界に国家のようなマクロ共同体はないし、ムラや街場のような中間(ミクロ)共同体(贈与)も絶滅危惧種である。もちろんあたしは国家(というか特定の権力)なんぞが居座る必要はない、ただ日本語と中景があればよい、といってきたわけだが、しかしいま、そこに居座るのは「交換の原理」だし、消費主体でしかない「世間」であることで吉本隆明が感じた困難は生まれているのではないだろうかと思う。(いま象徴界に居座るものを斎藤環は「世間」だといっている)。
あたしたちは、例えばTV村のような「世間」にしばられれている。これがやっかいなのは、しばりを意識させない(感じさせない=考えさせない)環境管理型権力だからであって、それが象徴界に居座ることで(考えないことで)ますます象徴界は貧弱になる(象徴の貧困)。
あたしたちはそういう象徴こそ一部否定すべきなのだろうが、けれど「世間」ほどなんだかわからないものはないのであって(それはほかならぬ〈私〉自身だからだが)、まあ、だから「無」なんだろうね。
PS.内田樹先生が、政治のTV村化=演芸場化する事態(橋下大阪府知事のようなタレント知事や政治家が生まれやすいこと)をさして、
私にはこの事態は「アメリカ化」というよりは「演芸場化」という方がことの本質を言い当てているような気がするのである。/そして、繰り返し言うように、私はそれを別に悪いことだと思っていない。/もし演芸場で国政を議しても、とくに大きな支障がないというような統治システムを私たちが完成させたのだとすれば、それは政治史上に残る達成として久しく言祝がれるべきであろう。/いや、ほんとに。[演芸場国家ニッポン (内田樹の研究室)]
といっておられるが、それって、《「過去」もない。「未来」もない。では「現在」があるかというと、その現在もなんといっていいか検討もつかいない「無」》のナイーブな肯定、楽観でしかないのじゃないだろうか、と思った。