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店主戯言(浅草的思考)051202 2005/12/16〜2005/12/31 "There goes talkin' MOMO"


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2005/12/31 (土)  
【七味五悦三会】

午前7時起床。浅草は晴れ。

今日のわたしに課せられた仕事はガラス拭きと網戸の掃除です。ゴム手袋も「洗剤革命」も準備しました。ウェスも大量に準備しました。今日一日(と言っても二時間ぐらいでしょうが)ごしごしとやりたいと思います。

恒例の「七味五悦三会」は除夜の鐘を聞きながらやるのが庶民の本筋らしいのですが、庶民以下の下層社会の住人であるわたしは、一日かけてそれをやろうとしておりました。

■七味
まず七味ですね。今年もよく食べて飲みました。七味とは言わず、今年印象深かった「味」を列記したいと思います(まずは1月から6月編)。

ベルギービールに目覚める
宮崎市は「ぐんけい」の鶏のレバ刺
室蘭は「一平」のやきとり(焼き豚?)
「巨牛荘」のプルコギ
新潟県三条市「そね」のたまご焼き
浅草は「六文銭」のカマンベールもんじゃ
やっぱり「ふじ田」のたらこの握り(札幌市)
熊本県錦町市房食堂のホルモン
浅草は「こんぴらや」のうどん
銀座で西村さんと食べたふぐ、白子酒
浅草は「クロープクルア」の屋台風チキンライス
熊本市「龍峰」の餃子
浅草は喜美松の豚レバーのたたき
熊本は山鹿市「味よし」のかわがにのおじや(もう食えません。親方のご冥福をお祈りいたします)
同じく山鹿市の「つばめ」で食した三角油揚げ
栃木県今市市長畑は三たてそば長畑庵の一升蕎麦
岩手県は久慈市で食したうにとほや
宮崎市の「杉の子」の冷や汁
松尾ジンギスカンのやきうどん

ということで、後半は掃除が終わってから。(笑)

さて、ガラス拭きも終わりました。ピカピカに磨かれたガラスを通して見える浅草は、とても近くに見えます。では七味のつづきです(7月〜12月編)。

悪党は肉を食べなさい。津の「まるよし炭火焼肉」の牛タン。そして岩見沢の雷電食堂のホルモン。
余市町沢町「菊鮨」の生うに丼
北海道は深川市「南大門」の師匠専用生肉セット
尾道は「花月」のアイスキャンディー
同じく尾道は「 クラウン」の尾道ラーメン
熊本は五郎八(いろは)のホルモン定食
同じく五郎八(いろは)のもやし炒め
向島は「岩手屋」のハイボール
浅草は「弁天」のてんちら
浅草は「曙湯」のコーヒー牛乳(笑)
室蘭は「鳥辰中島店」の鶏の唐揚(半身)
室蘭市中央町の「乃ざき」の牛鍋
向島は「岩手屋」の目玉焼き
浅草は「一文本店」のねぎま鍋
尾道は「一口」の串揚げ
鹿児島は天文館、「一成」のてもつ鍋
栃木県粟野町深程は「宮入そば」の ニラそば
宇部市中央町は「団十郎」の金太郎
浅草は児玉のおでん
浅草は「松葉」の大学芋
浅草は「魚がし」のすっぽん鍋
サロマの牡蠣
山鹿は「龍方」のラーメン
村山のそば
5年ぶりのおじやうどん友の会
藻琴湖の牡蠣
盛岡は「新寿司」のテールスープ

ということで、今年もよく食べました。わたし的には浅草の再発見的な年でした。わたし自身もう少し浅草を放浪しなくてはならないな、と反省しています。

五悦三会は後程。

■五悦
では、五悦です。悦というのは楽しかった事ですから、五悦というのは、それを五つということです。わたしは基本的には一年中躁状態のようなものですから、言ってみれば年中「悦」であり、えぶりでぃ「ハレ」のようなものなのですが(こういうのは世間一般では馬鹿と言われるわけですが…)、無理やり五つ選んでみました。

岩井國臣先生との「地域再生フォーラムin空知&網走&山鹿」。
・山鹿のラーメン屋の親父が「桃論」を買ってくれていて、偶然入ったその店でサインをしたこと。
・今年も法大ECと葉月桃塾が開催できたこと。
・「桃組」が中国地方に若干拡大したこと。
・岩手屋や曙湯といった地元の再発見。
次点・ガラスを磨いたら浅草がきれいになったこと(笑)。

■三会
三会は、今年新しくお会いした方の中で印象に残る三人ということです。これも、リンクを増やすことがわたしのIT化の実践であり、おかげさまで、今年もたくさんの出会いがありました。その出会いに感謝申し上げます。

それを三人に絞るのは難しいこなので、あえて今年の一人を選べば、それは岩井國臣先生ということになるかと思います。

わたしと岩井先生は政治的にはなんのつながりもありません。ただ基本哲学が一緒だというだけなのですが、空知、網走、山鹿と三回の「地域再生フォーラム」で御一緒させていただきました。

ほとんど打ち合わせもなく、わたしの形而上学的な講演を咀嚼し、自らの演題につないでいく様は、快感と尊敬の念を抱かずにはいられませんでした。岩井先生を通して、基本哲学が同じと言うミメーシスのすごさを実感した年でもありました。

ということで、これで今年の書き収めでございます。
皆様、よいお年をお迎えください。

2005/12/30 (金)  
【食べたもの読んだもの】

午前5時40分起床、浅草は晴れ。

2006年1月28日浅草ビューホテルにて 午後7時30分より。今回は ボウリング大会つきです。を掲示しました。みんなきてね。(^O^)/

さて、寒い日が続く中、矢板の八木沢さんから「とちおとめ」をいただきました。一足先に春のかおりを楽しみました。


昨日のお昼は、盛岡の下河原さんよりいただいた盛岡三麺から、白龍のじゃじゃ麺をいただきました。

なにかスパイシーさが物足りなく、わたしはこれにマジックソルトをふりかけて食べたのですが、なにが足りなかったのか写真を見て今頃気づきました。生姜ですね、たぶん。(笑)

チータンもつくりました。ねぎが抜けていました。(T_T)


夜は児玉さんでおでんを食べました。

四角いのは豆腐なのですが、豆腐のおでんというのも、湯豆腐とはまた違った味わいがありまして、寒い夜にはおつなものです。お酒がおいしくいただけました。

昨日は、日中旅行会社と、年明けの出張手配等のごちゃごちゃで忙しかったのですが、夕方には時間もできましたので、養老猛司先生の『無思想の発見』を読んでいました。

無思想の発見

養老猛司(著)

筑摩書房
2005年12月10日

756円(税込)







養老先生のこの本は、口語体の新書としてはかなり読み応えがあり、わたし的にも使えそうなところが盛りだくさんなのですが、それを利用可能なところまでまとめるのには時間がかかりそうなのもたしかです(ひとえにわたしの能力のなさでありますが…)。

無思想というのは、思想がないことを信じる、というひとつの思想であることはわかっていました。それはとても仏教的なものであり、日本的なものであり、白黒どっちでもある、若しくはない、という灰色の思考です。

それは養老先生のいうように、確かに数字のゼロであって、+1、0、−1のゼロであり、無意識と意識を足したらゼロなのであり、アッセンブリーの簡単な、とても経済効率の高い思想方法なのだと思います(だから明治維新も、戦後も何事もなかったように受け入れてしまいます)。

その無思想を発見した、と養老先生が「あえて」言うのは、失ってみて始めてわかるありがたさ、のようなものの強調なのだと思います。つまり、無思想という思想も、いまや絶滅危惧種なのか、若しくは性質が大きく変化したことのあらわれなのだと思います。

それは、わたしの言葉では「中景」や「種」という「世間」、つまり中間共同体的アイデンティティの喪失感と重なるものです。

養老先生が言うように、「世間=思想」なのですが、その方程式を、中間共同体的世間が中心的に持っていて、個々人がアッセンブリー可能な無思想でもやっていけるだけのシステムがあったとき、ゼロは生まれます(というかゼロでいいのです)。

しかし、その中間共同体的世間が壊れてしまったところで、この方程式(つまり思想=世間)を形骸的に使ってしまえば、白黒ではなく、白白か黒黒になるわけす。つまり中間共同体的世間を崩壊させた思想に世間は偏ります。

ですから無思想は本当に無思想になってしまうのであり、偏り(一元化)だけを生み出してしまいます。それは+1か−1への偏りですから、ゼロはなくなってしまうのですね。それを原理主義と呼んでもよいのだろうと思います(それが国家レベルでの無思想の怖さであり、中間共同体的「種」の必要性です)。

今という時代は、その偏りが顕在化してきているという意味では、戦前とたいして変わらないのです。それも世間(世論)という名においてそうなのですから、無思想も極まってしまうとかなり怖いものとなります。

ではなにが足りないのか、といえば答えは簡単なのです―それは、「感覚世界」としての「中景」―。、だからと言ってその足りないものが、簡単に復活できないところに、この「無思想という思想」形骸化の怖さはあります。

感覚世界=物体の世界。違いによって特徴付けられる。「五感のすべてで捉えられるもの」つまり「現実」。

概念世界=思想。「同じ」という働きで特徴付けられている。「五感のすべてで捉える」わけにはいかないもの。

この中間に言葉があります。言葉は本来概念世界のものですが、感覚世界を表現できる(差異を表現できる」手段のひとつでもあります。

ですから今という時代に、『言葉こそが「同じ」と「違う」の間で、微妙な釣り合いを保つ。そこを「怠けたら」、世界はひたすら同一化する。』(p216)わけですね。

 

つまり、「感覚世界」と「概念世界」を言葉はつなぐのですが、「感覚世界」が小さくなっていく中で、言葉の機能もまた変化しているのだと思います。だからこそわたしは、コミュニケーションをレイバーやワークに奉仕させる、と「あえて」言います(→コミュニケーションのためのコミュニケーションの機械化、動物化。12月6日の【「現場状況報告」の可能性】を参照ください。特に、アンナ・ハーレントの「人間の条件」)。

「感覚世界」は時として非合理です。割り切れませんし、終わりがありません。それは例えば、職人的な職業中間共同体のもつ特徴です。つまり体で覚えろ!の世界です。暗黙知です。

しかしその職人的な職業中間共同体のもつ特徴さえも、コミュニケーションをレイバーやワークに奉仕させることでしか、いまや(マニュアル化した等価交換物としての「私」の時代には)取り戻せない、とわたしは考えています。

わたし自身、職業としてメタな思想とベタな現実を行ったり来たりしているわけですが、それは養老先生の言葉で言えば、概念世界と感覚世界を行ったり来たりしている、ということです。

だから「あえて」言葉を使います。それはメタとベタの微妙な均衡のためですし、『人はその二つの世界に住むしかない。現に住んでいるからである』(p217)ということなのですね。

2005/12/29 (木)  
【2006年1月19日札幌独演会】

午前9時起床。浅草は晴れ。

愛用のThinkPadX30のHDDから、紙が擦れるような異音がし、MSIMEのユーザー登録辞書が一部消えて、CHKDSKしてみたら「かなりやばい」、ということで、転ばぬ先の杖、昨日はHDDの交換をしました。

色々やるのが面倒なので、楽天にて「まるごと引越しキット」なるものを購入しました。これはHDDのクローンを作って、OS+データごと丸ごと引越し、という超お手軽なものなのですが、クローンの作成に10時間もかり、作業が終わったのは日付が変わった午前1時頃でした。でも、容量は40GB→60GBに増えましたし、HDDのスピードも速くなったので快適です。


HDDのクローンを作成する間、未読になっていた「限界の思考」を読んでいました。

限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学

宮台真司(著)
北田暁大(著)

2005年10月25日
奏風社

1995円(税込)





「社会学」というものを、実践レベルでどう生かすのか、は起業以来のわたしの課題でもありますが、宮台真司氏の活動はとても示唆に富むものです。

宮台氏の姿勢は、12月26日の【第28回新宿セミナー@Kinokuniya】に書いたようなものですが、彼の思想云々というよりも、思想と行動の往復過程が、とても参考になります。

わたしもわたしなりに動いてみよう、というわけで、オープンセミナーのご案内に、2006年1月19日(木) 札幌独演会−2006年 建設業正念場の戦略−を掲示しました。

「正念場」などという言葉は、本当は使いたくはないのですが、これしか思い浮かばないのもたしかで、とりあえずこのお題で動き出してみたく思います。

2006年は、今まで以上にセミナーの開催を増やしていこうと考えていました。それは、「とりあえずは、大きな動きの中で流れて、それ以上のスピードで流れていくことで独自性を保つ」ということの、わたし自身へのさらなる応用であり、建設業への戦略的応用ということにつながるものです。

具体的には、小さなお祭り(非日常)を連続的につくり、それをレイヤーを重ね合わせるように広げていこうとするものです(つまり中景のための中景のための中景のための中景…)。そのためにはわたしが、そして建設業が動かなくてはなりません。それはなによりも<私>のためにです。

2005/12/28 (水)  
【日本には建設業が必要です】

午前7時30分起床。浅草ははれ。

日本には建設業が必要です

米田雅子(編)
地方建設記者の会(編)


2005年12月2日
建通新聞社

1890円(税込)





方法とは思想のことなのですが、この本、つまり「日本には建設業が必要です」というのは「方法」であり、思想であり、主義主張です。

思想をあまり表に出さないことは、日本的な良識かもしれませんが、「あえて」それを破り主張をすることを、わたしは戦略的には悪いものだとは思ってはいません(→ノイズ)。

言葉が力を持ってしまった時代に、言葉以外の方法で建設業の必要性を主張するのは、極端なはなし、東京に大きな災害でも起きるか、全国的な天変地異でもない限り難しいだろうな、と考えています。

では、言葉で主張すればそこに「解」は生じるのかと言えば、それもまたナイーブ過ぎるわけで、この本は、言葉による議論の入り口に立った、その方法を選択した、ということの第一歩なのだと思います。

つまり、この本にも当然「解」はありません。ただ言説という方法の入り口に立ってしまった、ということなのだと思います(→骰子の一擲)。

言説という方法の選択は、「わからないという方法」の採用であり、思想の対立の場に自らを置いてしまうことでもありますが、多くの場合、それは容易な道ではありません。なぜなら、主張することには、なににも増して(その主張に対する)責任と覚悟と戦略、そして考え続けることが必要だからです。

この本には、わたしも短い文章を寄稿しています(つまり執筆者の一人です)。それは、店主戯言2005年8月23日【原稿草稿】にあるような、とても短いものですが、そこでは、この本と同じような立場を表明する方々(ある意味わたしの同志ですね)に向けて、考え続けることの大切さを書いたつもりです。

つまり、「日本には建設業が必要です」という方法は、誰が何と言おうが思想なのです。そこで大切なのは、この思想が<他者>に届くことであり、そして届きながらも簡単に消費されないことです。そのためには主張する側が、考え続けることが必要なのです。

それは今月7日に、札幌での葉月会で話したことにも通じることです。たとえば、「地域に公共事業は必要です」と言う(書く)ことは、技術的には簡単なことです。

しかしそれは、「地域社会は必要だ」という前提を持って主張されているだけのことですし、<私>の言葉を、誰か<他者>が聞いてくれる、耳を傾けてくれる、ということを期待して主張されているに過ぎません。ここに甘えはないか、ということです(→慢心しきったお坊ちゃん)。

わたしは、主張には大きな三つの壁があると考えています。ひとつめは、自らの主張の理論的基礎と、その立場を表明することができるか、ということです(多くはここで挫折してしまいす)。

たとえば、「日本には建設業が必要です」の建設業とは、なにを指してそういうのか、大手だけでいいのか、中小建設業も含むのか。中小建設業も含むとするなら、ではなぜ中小建設業が必要なのか、地域社会のためか。

では地域社会のためだとして、地域社会は日本には必要なのか、必要なのだとすればそれはなぜなのか。そのとき中小建設業と地域社会と日本の関係はどのようなものになるのか。

というようなメタなレベルでの問いに対する、理論的根拠ぐらいは持たなくては、主張もなにもならない、ということです。たとえそれが形而上学の言葉でしか表現できないとしてもです。

つまり、主張する<私>の立ち位置を、(メタなレベルで)ある程度明確にできないことには、説得力もなにもあったものではありません。「必要だから必要なのだ」では、ただのトートロジーで終わってしまうのです。それは、消費される以前の問題です。

ふたつめは、これはもっと前提的で戦略性の高い問題なのですが、<他者>との関係性の問題があります。これはずっとわたし自身の中心的問題でもあり続けているのですが、つまり「日本には建設業が必要です」という主張に耳を傾けてくれる<他者>は存在するるのか、という問題です。

わたしは、期待したほどには存在していないということを、今までの活動の中で、さんざん思い知らされてきました(まあ、わたしの力のなさ故でしょうが…)。なので、常にそのことを前提として戦略(ソリューション)を考えようとしています。

つまり、「伝わらない」とすれば「如何にして伝えるのか」というソリューションを考え続け、メタ(理論)とベタ(現実)の間を往復しながら、活動を続けてきたわけです(→たとえば岩井國臣氏との地域再生フォーラムのようなイベント)。

そしてみっつめは、この主張は「公共事業という産業」自身のものなのか、ということです。つまり、その種的(基体)なコンセンサス(主張すること自体へのコンセンサス)は取れているのか、という問題があります。

「日本には建設業が必要です」という「ひとつ」の主張は、一見外に向いているように見えますが、現実的には二方向性を持たざるを得ないのです。つまり種の内と外とです。

それはまず、「日本には建設業が必要です」という主張をすることが「公共工事という産業」(種)において採用されなくてはならない、ということであり、その主張をすることで、個は如何に行動するのか、を示す必要がある、ということですが、この内と外との理論的な整合性を取るのは意外と難しいものです。

わたしの「種の論理」では、種的基体のコンセンサスを、絶対条件だと考えていますので、実践レベルで、これ(種的基体のコンセンサスを得ること)が最初の取り組みになっているわけです(→事業者団体ベースのIT化)。

わたしのこの本に対しての率直な感想は、「振り出しに戻されてしまうなぁ、でも、戻されるのもいいかもしれないな」というようなものです。

それは、わたしの立ち位置(つまり思想の主張)に、立ってくれる方々が増えるのかもしれない、というような期待感です。

もちろん、それはわたしの期待値ですから、上滑りで終わってしまうのかもしれませんが、できればこのような態度と行動を、責任と覚悟と戦略をもって続けていただきたい、と思うのです。

(参考) 葉月会の勉強会で使用した講演用のPPT
 → http://briefcase.yahoo.co.jp/pinkhip
 「講演用資料」フォルダの中のBD051207.zipファイル

2005/12/27 (火)  
【〜風】

午前9時45分起床。浅草は晴れ。

昨晩は、たまった旅費関係の領収書を整理していましたら、あっという間に午前3時を過ぎてしまい、おかげさまで、今朝の起床はご覧のとおりの体たらくです。

ロゴを簡単に作ってくれるサイトを、mixiのマイミクさんが日記で紹介していたので、早速わたしも作って遊んでみました。

たとえば、現在このサイトでも使っている(↓)は、グーグル風なわけですし、
 
http://www.logogle.com/ja/ で作成

たとえば、(↓)は、Yahoo風。
 
http://logo54.com/ で作成

これ(↓)はハリー・ポッター風なわけですね。
 
http://logo54.com/ で作成

まあ、他にも色々と出来るようですが、この「〜風」という、ベース(完成されたデザイン)があって、それをちょっと「ひねる」ことで、パクリを生み出す作業が、頭も技術もないのに、万人が簡単に出来てしまうところが、いかにもハイブリドな技術の時代を象徴しているな、と思うのです。

しかし、これって「ひねり」なの?と考えると、違うと思いますし(考えなくてもできるわけですから…)、利用者にとっては身につく技術でもないですし、これで自分が変わるわけでもないし…と、「?」ばかりのものなのですが、所詮寄せ集めのデザインのようなわたしのホームページであれば、まあ、楽しければよいわけね、と今のところは、テキトーに遊んでおりました。(笑)

一方、スローガンを作ってくれるところもあったりします。
http://www.sloganizer.net/en/imagegenerator.php

たとえば、この店主戯言のサブサブタイトルである、"There goes talkin' MOMO"は、こんな風になったりします。
generated by sloganizer.net

たいした意味はないのですが、テキトーにやっているとそれなりになる、という、いかにもハイブリッドなもので、また面白いと思うのです。

2005/12/26 (月) 
【第28回新宿セミナー@Kinokuniya】

午前7時起床。浅草は晴れ。

昨晩は、新宿まで出かけ、紀伊国屋ホールで開催された、第28回新宿セミナー@Kinokuniyaを受講してまいりました。

『波状言論S改』(青土社)刊行記念トークセッション
「ゼロ年代の批評の地平
―リベラリズムとポピュリズム/ネオリベラリズム―」
出演 東浩紀、北田暁大、斎藤環、山本一郎

客席におられた宮台真司さん(若い奥様を同伴されておりました)が、最後に言っておられたように、議論は閉塞し、ある意味「期待はずれ」だったかもしれません。しかしそれはそれで正論だとしても、セミナー自体は見事な閉塞芸でもありました。

宮台氏の指摘される「期待はずれ」は、東浩紀氏に向けられた「それじゃ、あなたは何のためにやっているんだ」という問いかけに象徴的なものです。

その問いに対して彼の答えは、「なんだかわからない」なわけですが(本当はもう少し詳細に自分の欲望について語ってはくれましたが…)、それは主義主張の無さの空回り(つまり議論の閉塞)のようなもので、それに対して私達はつまらない、と感じてしまうのでしょう。

例えば小泉さんの「構造改革」は、第三象限にある「ポピュリズム」の運動ですが、それが分析できたとしても、じゃそれに抵抗しようとするとき、「それじゃどうすんのよ」と問われても、抵抗の道具が準備できていない、ということです。


それは象徴界(中景、第二、第四象限、東氏の言葉では「大きな物語」)の喪失を埋めるものを、東氏や北田氏はまだ提供できていないジレンマのようなもので(まあ、彼らは純粋に分析を楽しんでいるだけかもしれませんが)、その閉塞の反復のような議論は、演芸的には、落語的ナンセンスささえ漂わせておりました。

一方、最近の宮台氏は、その穴埋めに近代の復活を言うわけです。つまり象徴に「あえて」天皇や亜細亜主義を持ってきています。これはある意味わかりやすいアンチ・ポピュリズムにはなっていますし、主義主張は読み取りやすいと思います。
 
でも、東氏や北田氏は、そうはしないのですね。つまり象徴が壊れたところから始めています。近代の復活ではなく、ポストモダンからはじめてしまう。象徴が無いところから、象徴がないままの生活社会のようなものを模索しています。

でもその解は提示できていないわけです。ですから宮台氏からは「期待はずれ」と言われてしまうのだと思います。その解のなさは思考的には面白とわたしも思いますが、実践レベルでの物足りなさがあるのも確かです。

わたしには、幸いにして「それじゃ、あなたは何のためにやっているんだ」という問いへの一応の答えは準備してあります(なければこんな仕事はできないでしょう)。

それは、実践レベルで、地域再生の中に「公共事業という産業」を位置づける、という運動ですが、じつはそれはある意味、宮台氏の立場に近いものかもしれません。

それは、「資本主義の精神」の復活という近代の復活を、象徴の位置にしようとしているものだからです。しかし、ここで宮台氏と違うのは、地域の復活と天皇や亜細亜主義は直接的に結びつくことはない、ということです。

復活の単位はもっと小さな単位である「種」にあります。つまり地理的な制限をもった第二象限と第四象限です。

これは理想主義過ぎるという批判は覚悟してやっています。しかし「あえて」そうしようとしています。そうでもしないと、第三象限にある「ポピュリズム」である、今の「構造改革」に、公共事業という産業は、抵抗できないと考えています。


2005/12/25 (日)  
【カオリーニョ藤原と彼のボサノムーチョ】

午前5時起床。浅草は晴れ。
ものすごく寒いような気がするのですが…。

なんでクリスマス・イブにケーキが必要なのかがわかっていないわたしは、クリスマスは家族の復活祭だと勝手に考えているわけで、昨晩は、家族で清司に出かけ、芋焼酎で乾杯をし、ケーキのない夜を過ごしました。

清司には家族連れがうちも含めて三組。それは滅多にないことですが、まあ、わたしと同じようなことを考えている親父はいるわけです。さすがにクリスマス寿司はありませんでしたが(当たり前田のクラッカー!)、ある意味アットホームな浅草の夜ではありました。

清司から帰って、ケーキもどきのパネットーネを少しいただきました。イタリア製のパンです。残念ながら赤ワインはありませんでしたが、寿司とパネットーネ。つまり和と洋、言うなれば和の心得と洋の嗜み、日本のクリスマスは、このいい加減さが命でござんす。(笑)


いい加減、と言えば、昨日、大阪のねぇさんから届いたCDは恐ろしくいい加減なものでした。「カオリーニョ藤原と彼のボサノムーチョ」、得体が知れません。(笑)

演歌BOSSA

カオリーニョ藤原と彼のボサノムーチョ

1998年5月10日
Pヴァイン・レコード -

2310円(税込)




和の心得洋の嗜み(人生の花)

カオリーニョ藤原と彼のボサノムーチョ

2002年12月10日
Pヴァイン・レコード

2940円(税込)



それは、恐ろしいほどゆるゆるでした。そして甘美な音でした。なにかギスギスした最近を生きてきたわたしにとっては、思い切り反転してしまう非日常の音でした。

それは、ワールド・ミュージックというものが喧伝されていた90年代前半、まるで試験管ベイビーのように生み出されてくる和魂洋才的ハイブリッドミュージックに感じた、如何わしさを孕んだぬめぬめ感のある出来損ない感と言いますか、かわいらしい怪物感とでも言いますか、そういうとても日本的なものが(日本的ってそんなものですよね)、突然、ポン!と飛び出してきたわけで、わたしのハートは久しぶりにどぎまぎしてしまいました。二日続けて大阪発にやられてしまったわけです。

演歌BOSSAは、演歌とボサノバのハイブリッドです。それは確かに「和の心得と洋の嗜み(たしなみ)」なわけで、浴衣を着て歌うボサノバの違和感なのですが、ジャック・ラカンが、「日本には精神分析はいらんわ」と言うことに通じるような、和魂洋才的雑種性(続けていればそのうち慣れますわな、でもまがい物です)的器用さ(ブリコラージュ)と、それを作っている人間の楽しさが伝わってきます。

わたしがちょっと古臭い大衆芸能にひかれ続けれるのは、この雑種さ、別の言葉で言い換えれば、ハイブリッドないい加減さにあるわけで、あくまでも借り物は借り物なのですが、まあそれもそのうち慣れますわな、でも偽者、なわけで、借り物は器用に調理されていますが、いつまでも借り物として刻印されている、というへんてりんさに、なにか生活する者のしたたかさと、作ることの楽しさを感じているからです。

たぶん今必要なのは、現実を生きるときの、そんなしたたかさなのだと思います。

と言いながらわたしは、今日は新宿の紀伊国屋へ、第28回新宿セミナー、『波状言論S改』(青土社)刊行記念トークセッション、「ゼロ年代の批評の地平―リベラリズムとポピュリズム/ネオリベラリズム―」など言う、色気も素っ気もないものへでかけるわけですが、それもまあ、一種の芸として楽しんでくればいいわけで、「メタな理論とベタな現実の往復運動=批評の実践」を、芸として楽しんでこうようと思います。

2005/12/24 (土)  
【水の女】

午前7時30分起床。浅草は晴れ。

昨日、盛岡からの帰り、切符を買おうとしたら、10時から11時のはやては「立席」しか空いていませんでした。全席指定の新幹線なんて、いまどき走っている方が時代錯誤ですし、「立席」っていうのも馬鹿にした話なので、どうせ帰るだけだからと、やまびこで3時間かけて帰ってきました。

自宅に帰ると荷物がたくさん届いていました。その中のひとつに「水の女」はありました。

水の女

監督: 杉森秀則
出演: UA/浅野忠信

2003年5月23日
東北新社

4935円(税込)







この映画については、まったく知らなかったのですが、たまたま「宮川左近ショー」について調べることがあり、Web検索をしていたら引っかかってきたのです(郵便的誤配とでもいいましょうか)。

この誤配のハブは松島一夫さんです。かれは宮川左近ショーのメンバーのひとりですが、この映画では、浪曲爺の役で渋く唸っているらしい・・・。もうそれだけで、このDVDが欲しくなり、それでヤフオクで買ってしまったわけです。送料込みで3500円。(笑)

そして、昨日はチャプター6だけを繰り返し観たのです。わたしがいつも行っている曙湯と同じよな銭湯が映し出され、そこには浪曲爺がおりました。

渋く唸るは「浪曲銭湯道頓堀」。すばらしい銭湯哲学です。たまりません。ヒヤリングがおかしなところもありますが、まあだいたいこんな歌詞です。

 あ〜 清めよ 流し合おう

 銭湯すたれば仁義がすたる 仁義がすたれば銭湯すたる
 銭湯すたれば人情すたる 人情すたれば銭湯すたる

 社長も乞食も坊さんも
 ヤクザもジジイも赤んぼも
 ここではみんなおんなじよ
 たんなる一個の汚れたからだ 何にも変わりはありません

 はだかとはだかの触れ合いで 人の痛みがよく分かる
 皆が回りを思いやり いつも仲良くこれたのは これ!学校や法律のおかげではない

 なぜならば 学校が教えてくれるんは知識だけ 人生は教えてくれへん
 法律が教えてくれるんは そりゃ常識だけじゃ

 さすりゃ銭湯は人生を学ぶ最高の道場
 銭湯は 銭湯は ここのことじゃぁ! 人生を学ぶ最高の道場やぁ〜

 清めよ 流し合おう

 銭湯すたれば仁義がすたる 仁義がすたれば銭湯すたる
 銭湯すたれば人情すたる 人情すたれば銭湯すたる


そして夜は、初めて参加するmixiコミュのオフ会に参加してまいりました。

圧倒的な若さの中で、わたしは浪曲爺になりきれたのでしょうか。(笑)

ということで、皆さん、ハッピー・クリスマス!
よい週末をお過ごしください。

2005/12/23 (金)  
【テールスープという野生】

午前6時40分起床。盛岡ははれ。
-1.8℃。意外と暖かい朝です。

昨晩は、新寿司さんでテールスープをいただきました。


だいたい寿司屋でテールスープを出すこと自体が非合理な話なのですが、これがテーブルに運ばれてきたときには感激しました。

「ああ、野生だよ」、「だから宮沢賢治はここに生まれたんだよな」って思ったわけです。(笑)

テールはとろとろに煮込まれ、丹念にアクをとったスープは透明です。
そこに、ニラとにんにくがたっぷり!
コラーゲンはスープに溶け込み、スープはまったくさらさらしていません。

最高だ!

それで調子に乗ってしまい、おいしい日本酒やら銀河高原ビールやらをたくさん飲んでしまい、三次会で(↓)の写真を撮った後、わたしの記憶は飛んでしまいました。

ハッピー・クリスマス!

よい週末をお過ごしください。



























2005/12/22 (木)  
【新年会について】

午前6時起床。浅草は晴れ。

さて、来年のはなしをすると鬼が笑うらしいのですが、まあ勝手に笑っていただくこととして来年のはなしをします。

毎年恒例の新年会を、2006年1月28日、午後7時30分より、浅草ビューホテルで行うことになりました。

午後7時30分、時間的には少々遅い始まりとなってしまいましたが、まあ、これを1次会と考えなければよいわけでして(笑)、午後の遅い時間からなにかイベントを企画しようかと考えていました。

恒例では、浅草公会堂で新春講演会を行うところなのですが、その時期、浅草公会堂の会議室が改修工事に入るために使えないらしく、では、というので今回はちょっとツイストしてみて、運動不足の方々による「ボウリング大会」でもやろうかな、と考えていました。

もちろん賞金付でやらないと、気合も入りませんでしょうから、それなりに企画したいと思います。それでちょと汗をかいてから、ホッピーで咽喉を潤し、その勢いで新年会!っていうのはどうかな、と。まあ、そんなことを考えておりました。

毎年、暑気払いや新年会をやる度に、「これが最後かもしれないなぁ」などと思ってしまうのですが、こうしてまた来年のはなしができることは、しあわせなことだな、としみじみと感じている年の瀬なのです(しかし思考は緩いですなぁ)。

先行予約、お問い合わせは、店主へメールでお願いいたします。
来週中前半には、正式な新年会告知ページを立ち上げたく思います。

さて本日は、岩手建協さんの広報IT委員会出席のため盛岡へ参ります。今日は全国的に荒れ模様なわけで、一応の雪対策はしてまいりたいと思います(たいしたことはできませんが…)。

2005/12/21 (水)  
【爪の垢】

午前7時起床。浅草はくもり。

やわらかいブレイン―門脇俊一の独学・自由・創造

梶山允生、邦子(著)

2005年10月20日
出版芸術者

2415円(税込)







『独学のきびしさ。習うとそのきびしさはない。』(p26)

『門脇俊一は生まれつき天がくれた才能だけで絵を描く。だから彼は天才。』
『人間が理屈でひねり出した人工の才能は天才にくらべれば爪の垢』(p28)

生まれつき天がくれた才能などなく、独学でありながらも、爪の垢でしかない理屈に一途の望みを託すわたしは、やっかみ半分に上の言葉は嫌いですが、門脇俊一氏の絵は嫌いではありません。

たしかに独学はそもそも象徴(中景)が機能しないところからの出発ですから、自由ではあります。しかし創造が働くのか、と言えそんな簡単なものではない、と思っています。

それはわたしが独学の人であるからなおさらそう思うのですが、独学のきびしさとはは、基になるデータもまた自分で蓄積していかなければならない厳しさなのだと考えています。

下の図は、「考える技術」の概要なのですが、要は基がなければ創造もできないということです。爪の垢でもなんでも、基(素)を持つこと、そしてそれをデコードすること、そして実行することの反復でしか、(一部の天才を除けば)想像力は働かないのだと考えています。
 

生まれつきの才能がないことにかけては自信があります。それでもまあ、独学の爪の垢で、なんとか今まで生きてきたのも事実ですが、最近、自分が手帳に書いている字を見ていて、「もう少しなんとかならないのか」と思ってしまったわけです(一部否定)。

字のうまい下手が才能によるものかどうかは知りません。けれども、少しでも独学で爪の垢を機能させようと思い立ち、一ヶ月程前からペン字の練習をしていました。(笑)

ボールペン字書き込み式練習帳―正しい書き順で美しく

山下晴雨(著)

2005年3月
高橋書店

788円(税込)






字は、未だに下手です。まあ、それは当たり前のことなので別に落胆はしていません。ただひとつわかってきたことがあって、それは手本のかたちを真似て書くことよりも、正しい書き順で書くと、下手でもそれなりにはなる、という単純な事実なのでした。

正しい書き順を覚える。それも身体で覚える。こういう教則本をみると、わたしの書き順がぜんぜんでたらであることがよくわかるのですが、つまり基本がなっていないのです。

なのでわたしは「考える技術」のセオリーに従って、基、つまり基本をきちんと学ぶことをしています。それが「人間が理屈でひねり出した人工の才能」であったとしても、天才ではないわたしができることといえば、そんなことしかないのです。

「日ペンの美子ちゃん」にお世話になろうかな、と本気で考えている今日この頃なのでした。(笑)

2005/12/20 (火)  
【包むこと】

午前6時30分起床。浅草は晴れ。寒いです。

Rock the Party(DVD付)

DOUBLE











DOUBLEの『Driving All Night』を、ハイブリッド(あの頃は「は〜い・ぶりっど」と呼んでいましたね)の説明に使っていたのは、一昨年の法大と葉月の桃塾でした(例えば下を参照)。
http://www.momoti.com/myself/self040402.htm#040425

それから彼女のアルバムを何枚か購入して愛聴しておりましたが、「そういえば最近あんまり聞かないねぇ」などと思っていた矢先、「おじやうどん友の会」で訪れた蕨駅に、ただ事ではないぐらい大きな彼女のポスターを見つけてしまいました(いやでも目に付きます。写真のようなものですから…)。

「なぜ蕨でDOUBLE?」という疑問があったので、彼女のオフィシャルサイト( http://www.forlife.co.jp/double/ )を調べてみますと、なるほど…。

それで彼女の新作『Rock the Party』が発売されていることを知り、昨日はクイックマッサージのために出向いた、対象年齢45歳以上デパートである浅草松屋でそれを購入しました。

amazonn.曰く、「オルケスタ・デ・ラ・ルスとBOY-KENを迎えたLATIN/REGGAE/R&Bが融合した激ヤバパーティーチューン!!」だそうで、たしかにハイブリッドな曲です、暖まります。

しかしそれよりもわたしの興味は、このジャケット写真の、彼女のお尻を包む二重構造に、わたしの心が惹かれるのはなぜか、にあります(笑)。

松屋では、これも「おじやうどん友の会」のときに、タロサがはいていた指つきの靴下がうらやましかったので、赤いのと緑色の二色を購入しました。

そして塩瀬総本家の「本饅頭」。
 
この饅頭はいつみても凄い、としかいいようがありません。皮が透けていますが、それがぎりぎりに透けているわけで、まるで胞衣のようであり、神々しさとエロティックささえ漂わせています。もちろん食べても大変おいしいのです。

そして夜はまたしても蒸し牡蠣を食べました。宮田さんから牡蠣を沢山ちょうだいしました。
ありがとうございます。牡蠣は快楽の象徴です。
 
殻つきの牡蠣をみると、中原中也の詩「サーカス」のあるフレーズを思い出します。

 「観客様はみな鰯
   咽喉がなります牡蛎殻と
  ゆあーんゆよーんゆやゆよん」

サーカスはテントという薄い胞衣を持った芸能です。そこで繰り広げられる空中ブランコは、「ゆあーんゆよーんゆやゆよん」 なわけですが、それを見上げる観客の咽喉は、まるで牡蠣殻のようにカリカリとなるのです。

それは悦楽の音です。詳しくは、中沢新一の『精霊の王』の無理やりな解説を是非お読みください(笑)。

2005/12/19 (月)  
【個人的公共事業】

午前5時30分起床。浅草は晴れ。

アートレスアートレス―マイノリティとしての現代美術

川俣正(著)

2001年5月1日
フィルムアート社

2520円(税込)







川俣正のオルタナティヴ・アート アーティストの個人的公共事業

岡林洋(編)

2004年2月25日
美術出版社

2415円(税込)





『なぜ個人で表現するのではなく、多くの人たちとかかわるのか』

『携わることによる共同性の意識が、作品を個人のレベルから、少しずつ集団のものとしてのレベルに肩代わりさせ、責任を分かち合うようになるからであり、唯一その関係性の変容を体感したいという興味が私にはある』(アートレス,p45)

わたしは、『アートレス』の帯に書かれたこのことばをみつけたとき、「ああ、これだよね、やっぱり」と思ったわけで、それは、わたしのIT化で繰り返される「中景」の構築から反転に至る過程のこと同じ意味だからです。

わたしは「答えのないコンサルタント」と言われていますが、なぜそうなのかと言えば、「携わることによる共同性の意識」つまり「過程」の継続とはある意味「答え」の先延ばしだからです。

しかしその「過程」こそが「中景」でしかなく、「答え」を先延ばしにすることが「携わることによる共同性の意識」の「答え」だからです(つまり動き出し、そして動き続けることですね)。

例えばそれは、事業者団体ベースや企業ベースでイントラネットを用いるとき、その結果ではなく、その利用をすべての会員に普及させるための取り組みの「過程」であったり、さらに個のレベルでの「考える技術」という「過程」であったり、地域再生の中に「公共事業という産業」を位置づけしようとする取り組みにおける「地域再生フォーラム」のような「過程」のことです。

それを図示すると下のようになります。
 

わたしの現在の最大の関心事は、第3象限の表出的要素(つまり非合理性)にありますが、それはとても個人的なインスピレーション、発想、想像から始まるものです(つまり第4象限にその根源はありますし、わたしが種と個の関係である「考える技術」を提唱するのもそのためです)。

最初のインスピレーションは(なにかの種をベースにした)<私>の個人的なレベルのものかもしれませんが、それが第2象限(つまり、企業、協会、地域社会、家庭、学校等のローカルなコミュニティ)との相互関係性(種と個の関係性=種の論理)の中で、第3象限的なものとなれるとき、そこには狭いコミュニティを超えて<他者>に訴える「非合理性」が生まれる、ということです。

つまり、自力で自立する個と他力によって生かされる個の関係がここにはあります。第3象限は、本当に不思議な領域です。グローバルであり、かつとても個人的な領域なのです。

そこは、芸術のみならず、芸能やスポーツの持つ「たのしさ」や、感動、人が人を信頼することなどのフックとなる非合理性の領域です。

ですから、それを個人的なものとせず、集団的なレベルに昇華しようとするところに、川俣正さんの活動の面白さがあり、コミュニティ・ソリューションの秘密もそこにまたある、のだと考えています。それは結果ではなく過程を重んじる活動です。

まあ、そればかりでないのもたしかでしょうが(当然に上書きとしての形式合理は有効でしょうから)、第3象限の機能は、コミュニケーションや中景の構築には、無視できないほどに大きいということです。

「公共事業という産業」は今、形式合理に走ることで、<他者>とのコミュニケーションをとろうとしています。つまり、第1象限にある累積性の強い(規制や、マニュアル的な)部分を強調しそれに身体をあわせようとしています。

しかしそのことで、今という時代に逆にコミュニケーションに失敗しているわけですね。それはまったくの逆行なわけで、早くそのことに気がつき反省をすべきでしょう。

川俣正さんは、四象限すべてを網羅した活動を行っている芸術家です。世界的な芸術家でありながら、地域再生においても「過程」を大切にした活動を行っています(またそれがグローバルであったりします=グローカル)。

そしてそのような「過程」がこの時代に消費されないために、「とりあえずは、大きな動きの中で流れて、それ以上のスピードで流れていくことで独自性を保つ」ことを実践されています(つまり動き出し、そして動き続けることです。でもただ動けばいいってものでもありませんが…戦略は必要です)。

そんな川俣正さんの活動を、岡林洋さんは「個人的公共事業」と呼んでいるのですが、ここでいう「公共事業」とは、まさにわたしが「公共事業という産業」と言うときの「公共事業」なわけです。なので批判もあります。

岡林洋さんは、川俣正さんの「個人的公共事業」をタイプ1と2に分けて考察していますが、この考察の中に、公共工事への批判を超え、地域再生に「公共事業という産業」をどう位置付けるのか、のヒントがあるように感じています。

このあたりは年末年始のお勉強ということにしたいと考えています。たぶん来年の5月ごろまでにはある程度のかたちになっているか?と思います(笑)。

2005/12/18 (日)  
【日常のふりをした非日常】

午前5時30分起床。浅草は晴れ。風が強い。

昨晩は、五年ぶりの「おじやうどんの会」でした。参加してくださいました、オグタン夫妻とタロサに感謝申し上げます。絶滅危惧種「おじやうどん」は蕨の片隅でひっそりと生きておりました。

そして、気心の知れた間柄ですから、別に申し合わせしたわけではないのですが、お土産の交換をしてしまいます。

タロサからのお土産は黒豚キティちゃんストラップ。
タロサらしい、としかいいようのない選択です。


オグタンからいただいたのは、大好きな白鷺宝(はくろほう)」。わたしが蕨に住んでいた頃は一種類しかなかったのですが、種類も増えました。今日は寒いのでお茶でも飲みながら、まったりといただきたいと思います。


そうして取り留めの無いはなしをしながら、おじやうどんを食べる、日常のふりをした非日常を楽しんだわけです。

本当にこの会は、微妙な境界にあります。宴会とも違いますし、食事会でもありません。悪く言えば中途半端、よく言えば中庸。古きよき時代のプロレスのような攻めと受けがあります(ってこんな説明で理解できる人はいるのか?)。

次回は、というよりも今度は、浦和の小島屋さんでうなぎを食べる約束をして5年ぶりの会も無事に終演。この会の特徴は、おじやうどんを食べるだけなので、いつも二次回はないのです(笑)。

そうそう、オグタン、「ゴング」を見せてくれてありがとう。あれは「三丁目の夕日」並みに戻りましたね。プロレス大好き小僧だった頃に。触発されて、帰りに蕨駅のキオスクで「週刊ゴング」を久しぶりに買ったら、エディ・ゲレロが亡くなっていたことを、そして新日が身売りしていたことを知り驚きました(遅い!っていうの)。

2005/12/17 (土)  
【とりあえずは、大きな動きの中で流れて…】

午前6時起床。村山は雪だらけ。

昨日の北村山建設業協会の勉強会で使用した講演用のPPTを掲示しておきます。
→ http://briefcase.yahoo.co.jp/pinkhip
「講演用資料」フォルダの中のBD051216.zipファイルです。

「とりあえずは、大きな動きの中で流れて、それ以上のスピードで流れていくことで独自性を保つ」(川俣正)

わたしはこの川俣正さんのことばこそ、事業者団体ベースのIT化の極意だと思います。つまり中景を構築するときの心得です。

では、「とりあえずは、大きな動きの中で流れること」とはなにか。
そして、「それ以上のスピードで流れていくこと」とはなにか。

流れに逆らうのではなく、流れの中で力を爆発させ自らの力で漕ぎ出すこと。
そのことで流されないこと。

昨日のお昼は、「そばのみ」さんで矢萩さんが打ったそばをご馳走になりました。


大変おいしくいただきました。
そして昨晩の懇親会のお酒。十四代と黒縄です。どちらもとんでもない日本酒です。わたしは特に黒縄が好きです。

そしてしめは、「冷たいとりそば」です。

この「とり」がくせものです。たぶん「ひねどり」なんだと思います。
うまみが凝縮していました。

それにしても村山もよく雪が降ります。
温泉につかって、すこしのんびりしてから帰ろうと思います。

2005/12/16 (金)  
【北海道から山形へ】

午前5時25分起床。札幌は真っ暗。
二日酔いの朝です。
北海道はやっぱり寒いです。写真は、昨日の岩見沢市内です。


昨日は、空知建協さんで短めの講演。
主題は、「IT化による事業者団体連携の必要性について」。そこでわたしが強調したことは、「とりあえずは、大きな動きの中で流れて、それ以上のスピードで流れていくことで独自性を保つ」でした。このことについては、後日詳しくふれたいと思います。

さて、「地域再生フォーラムin山鹿」のDVDができたとのこと。

わたしの怒涛の非合理性講演。

岩井先生の「あるべきようは」。

一枚1500円(税込)だそうです(送料は別)。
詳しくは、山鹿管工事業協同組合事務局へお問い合わせください。
yamakan@magma.jp

ということで、今朝は8:25発ANA720便で仙台まで飛びます。そのために札幌を7:06に出るエアポート70号に乗らなくてはなりません。

そして仙台から、山形県の村山まで移動。
今日は、北村山建設業協会さんでセミナーです。ゲストスピーカーは空知建設業協会さん。つまり一緒に移動です(笑)。
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