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2006年12月11日(月) 

江弘毅講演について、若しくは「街的ということ」は実践の哲学であることについて。

江弘毅講演

江弘毅 午前6時40分起床。浅草は晴れ。今朝は、12月9日大阪での江弘毅――あえて「さん」をつけてはいないけれど、それは彼への親愛の情の表現でしかない――の講演について書こう。

今回、江弘毅の講演会を企画して本当によかったと思う。それはなによりも参加いただいた方の反応からであり、そして私自身の思考の整理にとってもだ。早々と、以下のようなメールも届いていた。

江さんは、私の予想を遥かに超えたインパクトを与えてくれました。 聞きに行って本当に良かったです。 機会を与えていただけたこと、改めて感謝します。

江弘毅の問題提起

江弘毅の今回の講演は、当然に『「街的」ということ』についてであって、 彼の準備したA3版のレジュメ1枚の内容は、すこぶる濃かった。――そのレジュメを、私は印刷、持参するのを忘れてしまった。そのため彼は、昼食後事務所へ戻り、それを準備しなくてはならなかった。まったく申し訳ない――。

江弘毅は、消費社会――「交換の原理」やそれを推し進めるシステムももちろん含む――と共同体の解体(崩壊)の関係性という視点をもっている。今回の講演は、そこからはじまった。それは、消費が共同体としての社会や会社や家族――つまり「中景」の解体をすすめている、ということだ。

そこでは(かつては機能していた)〈私〉を規定してくれる――〈私〉はなぜ〈私〉なのかという根源的未規定性だね――モノとしての中景=種的基体は、機能不良をおこす。個はますます微分化し(まるでモナドのように)、〈私〉は間主体的に〈私〉を指し示すものを失う。 (家族でさえその例外からは漏れない)。

それでも、そのシステム(消費を支えるシステム)は、「自分」や「自己責任」に代表される思想をもって、〈私〉は〈私〉であることをわれわれに要求する――つまり〈私〉は消費によって〈私〉を確認しようとする。

しかしそれは常に満たされない欲望でしかない。

「人間にとって不気味なものは、彼の外にあるものではなく、最も彼にとって親しいものへの感情が抑圧され、無意識化されたもの」(「不気味なもの」Das Unheimlich ジクムント・フロイト1919)で、父母、兄弟までが他者になり、消費の嗜虐化としての「ゲット感覚」は、「人間の欲望が欲望するのは、欲望そのものであり、その全く満たされることのない空虚状態にある欲望そのものである。」(ジャック・ラカン)

つまり、「ああ、腹減った、カツ丼食べたい」と思っていたら、カツ丼が目の前にでてきた、というような時に人間はもっとも欲望の充足に接近しており、欲望を満たすべくカツ丼をわしわしと食べ進んでゆくにつれて、急速にカツ丼への欲望は失われる。だから、欲望の絶頂と欲望の充足が同時的に経験されるということは原理的にありえないのである。(内田樹の研究室)(以上、江弘毅からのメールから)

これはありきたりの大衆消費社会批判でしかないかもしれない。

江弘毅の思考のジャンプ

しかし江弘毅は、ここで立ち止まるようなまねはしないのだ。彼はここから、地域再生を考えるわれわれにとっても、実践理論としての価値を有すると(私は)思う視点へと、思考のジャンプをおこなうのである。

それは、 共ー身体、共ー欲望としての街場は、つまり共同体は、まだちゃんとあるところにはあるじゃないか、と、つまり今ある「街的」を示すという手法である。(私は彼のこの目の付けどころにほれたわけだ)。 『「街的」ということ』の卓見は、今もまだ残る「街的コミュニケーション」に、共同体性の逆襲の可能性を見出そうとしていることだ(と私は思う)。

公界の原理としての「街的」

ただその共同体性は、既に絶滅危惧種となった農業共同体のような原理で動いているのではない(それは交換の原理に見事に潰された)――多くの方々はここで混乱をおこしている。つまり〈経済/贈与〉の二者択一にとらわれている。

大阪の下町にまだ現実に存在する「街的」とは、アジール性を孕んだパトリ――公界の原理であることを、彼は示してみせたのだ、と(私は勝手に)理解している。つまりだ、それはちゃんと経済の原理に乗っかっているけれども、

「そんなこと(経済)はあんまり考えてやっているわけじゃなくて、共同体性(公界だけれどもね)をちょっとだけ――いやいやかもしれないけれども、優先させてやってたらそうなっちゃったのよね。」というようなもので、つまり江弘毅は、この経済(交換の原理)が支配的な時代に(共同体性が希薄な時代に)、共同体性(つまり贈与だ)も経済(交換)も機能している、奇妙な社会的なシステムを発見したのだと思う。

そして彼は、それを思考的闘争として、(なにげに)『「街的」ということ』で、われわれにしかけてきた。「お前らの街にこれはあるか」、と。だから私は、「浅草にはある」と答えた。

しかしその伝法なもの言いとは裏腹に、江弘毅は、思考をする人間の常として、自己言及を欠かさない人だと思う。つまり常に情報を発信しつづけている。(それが彼の職業なのだけれども)。

そして私は、そういう彼の思考的態度に、私自身の鏡像をみている。(それもかなり理想的に)。(笑)  今回参加された皆さんにも、それは伝わったのではないかと思う。

実践の哲学

つまり、江弘毅の実践とは、まさしくコミュニケーション――〈情報/伝達〉の差異の理解(二クラス・ルーマン)――なのである。それも、Mobiusの1/2切断×2的であることで〈他者〉をとらえ、それゆえに〈他者〉(つまりわたしたち)にとっても実践の哲学足りえているのだ、と(私は)思う。

そういうことを、参加者の皆さんは、今回の講演から、感じ得ることができたのではなだろうか。ならば、それは私にとても、とてもうれしいことであり、それでこそ、今回のイベントを、大阪でやったかいがあるというものだろう。

投稿者 momo : 2006年12月11日 09:23 : Newer : Older

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コメント

そうなんですね!

今回の「街的・・・・」セミナーは
大阪で行う事に意味があったんですね。
(私自身、後付け的に気づきましたが)

パトリとアジールを体感するには、日本でもこの場所を置いて他に無い。
と、いうより大阪で無ければダメだった。
そういうシチュエーションでもあったわけでした。


アジール性をはらんだパトリの後付け的再構築は、これは
並大抵の事ではないとは思います。
ただ、ヒントは沢山もらえたので、まずは踏み出す事を初めて
行きたいと思います。

近いうちに、岸和田を訪問したくなりました!(笑・・でも本音!)


投稿者 まにあ・1号 : 2006年12月11日 11:50

>まにあ・1号さん

>アジール性をはらんだパトリの後付け的再構築は、これは
>並大抵の事ではないとは思います。

ちがうの。
そんなものは、その辺にたくさんころがっているんだよね。
必要なのは、そういう「街的」を「街的」と感じ、いとおしいと感じる感受性と、それを情報として発信することなんだと思う。

江弘毅がいっていたのはそういうことだと思いますよ。


投稿者 momo : 2006年12月11日 13:25

桃組のみなさん

だんじりの江弘毅です。
9日は拙い話をお聞きいただきありがとうございました。
またお目にかかりたいです。

まにあ/1号さん。うちの町のだんじりです。↓
http://www47.tok2.com/home/danjirinet/2005/kishiwada/gokenyachou/
この写真の中に、何者でもないわたしが、確かにいます。

投稿者 大阪/江です : 2006年12月12日 12:33

>江さん

今回は大変ありがとうございました。
いろいろいたらないこところもあったかと思いますが、今後とも宜しくお願いいたします。

投稿者 momo : 2006年12月13日 10:48

江さん

先日はどうもありがとうございました

だんじりの写真の中に江さんを見つけました
カッコいいですね♪

来年は是非わたしも肌で感じに行きたいと思います

投稿者 ねぇさん : 2006年12月14日 09:07

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