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2007年05月01日(火) 

吾日三省―バイナリーと自己言及とブログ。

吾日三省

午前6時起床。浅草はくもり。ひできさんから「Web2.0と建設業―4月20日CCPM合同勉強会での講演用PPT」に対して「吾日三省 21世紀の地域の建設会社バージョン 試案」をトラバいただいていた。ここのところインターネットをゆっくり巡回する時間がとれないでいたのだが、ようやく昨日エントリー読ませていただいた。

今日一日、私は、地域社会に対して「忠」を尽くしたか?心から謙虚に感謝したか?*2

今日一日、私は、情報発信をあらゆるチャンネルで試みたか?ももちさんの記事を読んだか?*3

今日一日、私は、変化する社会に謙虚であったか?学び続けたか?互いに繁栄するべく相手と真剣に向かい合えたか?

ご自分の行動指針を、こんなふうにまとめられることは素晴らしいことだと(私は)思う。それは私が引用されているからではなく、ひできさんが自分自身を見る目をもつことができることへの素直な敬意としてだ。

自己言及とバイナリー

バイナリー

私が、モノの見方としてボロメオの結び目(三位一体モデル)を使うのは、なによりも私自身が、強烈な二項対立(バイナリー)主義者であることを自覚しているからだ。

しかし問題は、対象にあるのではなく、バイナリー選択の主体である私自身にある。そのことは、48年も生きていると身に染みて感じてしまっている。

なので、このブログでも(私)をいつも括弧の中に入れてしまうように、私自身を私自身が見る目を失わないようにしたいと思っているわけだ。(100%は無理だと知っていながらだね)――だから私は「我思わなくても我はあったりする」などといいながらも、デカルトのいうコギトも否定はしない(というより積極的に使ってさえいる)。(図参照)

自己言及=反省

それが自己言及=反省という行為なのだけれども、つまり現象それ自体の側に絶対的な空間や時間が備わっている、などと考えてしまいそうな自分がいつもいて、しかし観測結果は観測者の運動にも左右されるということは、アインシュタインのいう通りだとも思うわけで、なのでバイナリーには、自己というもう一項を加えることにしている。そして自己に対しては、数学的に構造主義という方法論を使えるように、と訓練することだけは課している(つもりなのだ)。

これは一見すると矛盾しているように見えるのだが(私的には)矛盾はしていない。構造には主体はない。しか構造の階層(ひできさんの言葉だとレイヤーだね)を決めているのも自己だと自覚していないと、構造なんて言葉をいい加減に使うことはできないものね、と(私は)思う――つまり、かなりいい加減に使っている、といういう意味だよ。

八木博さんがどこかで、私の考え方に対して、E=mc2のようなものですね、と言ってくださっていたが、まあ上記のようなものを感じてくださったのだろう(と勝手に解釈しております)。

ブログ

私はテクストを書く人としてのロラン・バルトに憧れていることは公言している。それはバルトのようにバイナリーだけを切り口に、対象を切れ味鋭く分析してエクリチュールとして表現してしまえる才能への敬意の表現としてだ。彼の場合、偉い人からの引用も極端に少ないのだが、それがとてもかっこいいと(私は)思う。

しかし私はバルトのようになれるわけでもなく、凡人以下をいつも自覚しているので、せめてのもの救いの方法論として、自己言及=反省を欠かさないようにしている――「存在することの習慣」、“the habit of being”としてだね。

その場が、このブログだというだけのことであって、そしてこうして毎日ここに書くことで、鏡像としてのWebを自己の理解のために使っている、ってことだろうと(たよりなく、私は)思う。

投稿者 momo : 2007年05月01日 11:20 : Newer : Older

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吾日三省 21世紀の地域の建設会社バージョン 試案 from HPO:機密日誌 (2007年05月01日 19:24)

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