三船
岩見沢市は、函館本線・室蘭本線を中心に石炭輸送の大動脈を支える都市として発展したところで、石炭産業の衰退と共にその役割をほとんど終えた今でも、沢山居られた旧国鉄職員の胃袋を満たしてきた店がまだ残っている。
岩見沢のバスターミナルの向かいにあるやきとり三船は、そんな時間軸の上にある店で、店の座敷に座り、ぎっしりと入った客のざわめきに耳を傾ければ、並べた焼き鳥の皿を前にして、ここをこの世でいちばん居心地のいい自分の巣にして、まるで魂の銭湯のように自分をさらけ出し、飲み、むさぼり、わめき、笑ひ、そしてたまには怒る、在りし日の労働者の姿が見えるようだ。
上のフレーズは高村光太郎の「米久の晩餐」のパクリだけれども、三船はまるで裏浅草の行きつけの店で飲んでいるような、浅草の語彙をそのまま使える安心感がある。12月14日、空知建設業協会広報IT委員会の忘年会は、その三船であった。
焼き鳥
三船の裏浅草的安心感は焼き鳥とかわしわ鍋に表出している。
どうだい、この焼き鳥の姿のかっこよさは。種類は正肉とモツの二種類しかない。しかも塩。「ねぎま」じゃなくて「たまねぎま」である。これの食べ方にルールなんぞあるわけもなく、ただ漠々と食べる。難しい薀蓄は一切ない。ただ魂の銭湯のように己をさらけ出して食いまくるのである。風が吹くと痛くなることなんかすっかり忘れている。
かしわ鍋
そしてかしわ鍋。この日の(うちのテーブルの)鍋奉行は松浦さんだ。たぶん向こうのテーブルは勝井さんだったろう。
これにはつくり方がちゃんとあるので、地元の方にお任せするしかない。私のような「遅れてきた者」の出番じゃない。遅れてきた者は、遅れてきたものとして享楽をただ受諾すればよいのである。何度も三船に通っているからと言って、すでにこの〈世界〉に存在している者のような顔をして、地元の方に先行しようなどというのは野暮である。
それさえわかっていれば、どんな〈世界〉にだって〈私〉の居場所はあるのである。つまりそれが「街的」への接続方法であることで、〈私〉のパトリはこうたずねてくるだろう。
「なぜ私はアナタではない私なのか」
「なぜここが他ならにここであるのか」
岩見沢市民は三船があるだけで幸せなのである。