チカ
チカ 素焼き


あんこう鍋

午前6時30分起床。浅草は晴れ。あんこう鍋12月13日の夜は、近藤さん馬渕さんと3条西1丁目ので夕餉。

この日のメインはあんこう鍋で、今シーズン初めての鮟鱇は、肝がぷっくりと育っていた。

そのあん肝が溶け出した鍋は複雑至極の味わいで、うまいなぁ、と唸ることしきり、酒も進めば、〆のおじやまで完食なのであった。

チカ

そしてこの日私の脳みそを撹乱したのが「チカ」という小さな魚の素焼きだった。その姿は公魚(ワカサギ)なのだし、味もまるでワカサギなのだけれども、これはワカサギではない、と言うのである。このチカという魚は海に棲んでいるのだそうだ。

たぶん東京だとワカサギという商品名でチカを食べているのかもしれない。なのでチカの味がワカサギの味なんだと私の脳みそにはデータ化されているのかもしれない。けれどもそれを偽装というつもりはさらさらない。なにしろ私にはまったく〈ワカサギ/チカ〉の区別がつかないのである。見る目を持たない私に、偽装もなにもあったもんじゃない。ただ知らないだけなのだし、それは悔しがっても意味はない。

知らないことは、幸せなことなのだ。

ラカンによれば、不安は欲望の対象=原因が欠けているときに起こるのではない。不安を引き起こすのは対象の欠如ではない。反対に、われわれが対象に近づきすぎて欠如そのものを失ってしまいそうな危険が、不安を引き起こすのだ。つまり、不安は欲望の消滅によってもたらされるのである。(スラヴォイ・ジジェク:『斜めから見る』:p27)

しかし知っていることは、不幸なことではない。

「チカ」知ったからと言って「ワカサギ」問題という不安など起こらない。なにしろ私はただの食う人なのである。「チカ」を知ることは私の欲望の対象ではないのだ。目の前にあるチカの素焼きは欲求の対象でしかない。

チカの、その生物学的特長は[チカ 市場魚貝類図鑑]に譲るが、そんなものを読むと50年近く生きてきても、世の中には知らないことが多すぎるな、との思いは過ぎる。しかしそんなことは関係なく、ただひたすら、しゃべって、飲んで、食う、そんな夕餉であることを、そんな強度の空間としての俵での夕餉こそが(私の)欲望の対象なのだろうな、と思う。


北海道岩見沢市3条西1丁目4-1
0126-24-2355

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