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『テクストの快楽』 ロラン・バルト。

テクストの快楽

テクストの快楽

ロラン・バルト(著)
沢崎 浩平(訳)
1977年4月10日
みすず書房
2100円+税


テクストが私に提供される。このテクストは私を退屈させる。それはまるで子供がおしゃべりしているみたいだ。テクストのおしゃべり、それは単に書きたいという欲求の結果生まれる言語の泡にしか過ぎない。それは倒錯ではなく、要求だ。そのテクストを書く時、書き手は乳呑み児と同じ言語活動を行うのだ。命令的で、無意識的で、愛情のこもらない言語活動、吸打音(クリック)の連打だ。(注目すべきイエズス会士ファン・ヒネケンが文字と言語活動の間に設けたあの乳臭い音素である)。(ロラン・バルト:『テクストの快楽』:p8-9)

午前6時15分起床。浅草はくもり。東京の雪ははかなく、路上にその姿はない。ただの、雨上がりの、冬の日曜の朝の姿だ。

いまあたしの手元には、「いただきもの」がたくさんあって、それは嬉しいこと。けれど、「いただきもの」ネタを書き続けていると、脳みそがパンパンに腫れてしまったようになる。

それは「いただきもの」が贈与だからだ。

「いただきもの」は、それ自身がロラン・バルトのいう意味での(快楽のある)《テクスト》だ。

(バルトにしてみれば、読まれるもの、本でも楽譜でも絵画でもファッションでも社会でも、それらは《テクスト》なのである)。

それは、あたしを退屈はさせることはなく、あたしの想像力は世界を駆け巡る。

贈与は、目に見える物質なのではなく、織物(テクスチァ)である。《「テクスト」は「織物」という意味だ。》(p120)

それは蜘蛛の巣のようなもので、それをつくった方が吐き出した縦糸と横糸、そしてそれを送ってくれた方(その物質に自らを投影した方)が吐き出した縦糸と横糸、という主体がその中に解けた=《テクスト》だ。(それが商品との決定的な違い)

その縦糸と横糸を紐解きもせずに(というか、そんなことはできやしない)、あたしは、そのテクステュール[織物]を、一枚の《襞》として受け止め、それにあたしの縦糸と横糸を織りなし、あたしの《テクスト》(織物)としようとする。

それが、テクスト狂ができる唯一の「おかえし」であるかのように(いや、唯一のものだ)。

お礼としてなら、「まぁ、うれしい\(^o^)/」でも「おいしかった!」だけでもいいのだろう。

けれど、(あたし的には)そのテクストは、想像界的な乳臭いものでしかなく、バルトにいわせりゃ《注目すべきイエズス会士ファン・ヒネケンが文字と言語活動の間に設けたあの乳臭い音素である》でしかない。

つまり[織物]ではない。

あたしも間もなく五十だけれど、「\(^o^)/コミュニケーション」も、やってできない世代ではない。

しかしそれをしないのは、年のせいばかりではなく、あたしの生き方の問題なので、とやかく言われる筋合いもない。(余所様にはとやかくいうけれども)。

余談だか、「\(^o^)/コミュニケーション」は、トマトで実験的に試みている。しかしどうやってもそれは《命令的で、無意識的で、愛情のこもらない言語活動、吸打音(クリック)の連打だ》の域を出ない。なのでテクストとしては退屈なのである。

そこでの言語は、数学的なゲームのための記号でしかなく、そこに、あたしが世界とつながる共同体性のなにものもない。

(あたしはいま、トマトを、ハートマークを集める数学的なゲームとして楽しんでいる。それはそれで面白い――このまとめはあとでちゃんとやるつもり)。

それであたしはまたテクストを書くのだけれども、それが楽しみながら書かれたモノじゃなくちゃ意味ないし、しかしこの快楽は、テクスト狂の苦吟とは矛盾しない、のもバルトの云うとおり。

あたしのテクストは苦吟なのだ。

それであたしは、楽しんで書くために、あえて「いただきもの」ネタを一端休む。つまり「おかえし」が義務化し、機械的に生産されてしまうのは、快楽でもなんでもないのでね。

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