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2019年03月03日|お知らせ
じゃがポックルを手に入れたあたしは「私」なのか「われわれ」なのかそれとも「みんな」なのか。(北海道限定:カルビー)
午前7時起床。浅草は晴れ。なんか肩こりのひどい朝だ。アリナミンAでものもう。
新年会のとき、岩見沢建設協会さんから「じゃがポックル」をいただいていた。上の図は、昨晩、それをぽりぽりと食べながら、TV村の住人になりつつ考えたことだ。
考えたことだ、というのは、あたしが思考には、マインドマップのように、頭のなかに図形(トポロジー=位相)があらわれる、というビョーキがあり、ほとんどのことは、上の図のようなボロメオノ結び目のトポロジーに落とし込んでデコードする、というべらぼうな脳みそになてしまっている、ということだ。
この思考方法は、欠点持ちだけれど(なにしろ素が弁証法だもの)、じっさいにやってみると、対象はかなりハイスピードでデコードされ、整理されるわけで、お弟子さん(あたしを師匠と呼ぶ「われわれ」)にはお勧めしている。
それはなによりも、《解釈(アンテルプレタシオン)は、貸借(アントルプレ)を満たすために、快速でなければなりません。》(@ジャック・ラカン》だからだ。
それで今回のデコードの対象はといえば、「じゃがポックルを食べているあたし」なわけで、それには、ベルナール・スティグレールの「私」「われわれ」「みんな」という概念(出展:『愛するということ―「自分」を、そして「われわれ」を』=そのうちちゃんと紹介する?)を使ってみた。
普遍経済学のトポロジーから、純粋贈与→「私」、贈与→「われわれ」、交換→「みんな」という置き換え。このあたりは「基礎から学ぶ考える技術」なのであって、ラカンのボロメオの結び目あたりからの理解は必要だろうね。
それで、親切にも?そのあたりの解説に着手しはじめたのが、[パチンコ、パチンコ、パチンコにいくのさ。若しくは、集団的で一人ぽっちの「みんな」。] なんだけれども、読んじゃいないだろうな、と。もちろんこのエントリーもその解説の一部になるのだけれどもね、というのが長い前置き。
じゃがポックル
「じゃがポックル」は、カルビーの陰謀なのか、ほんとうに品薄なのかは知らないが、とにかく入手が難しい。北海道のお土産未遂ランキングでは、まちがいなく不動の1位だろう。あたしはこの1年ほど、新千歳空港でその姿を見たことがない。
では、そういう「なかなか手にいらないもの」を、TVを見ながら、ぼりぼりと食べているあたしは、例外的な人間なのであり、その意味で(個体化した)「私」なのだろうか。
そして、じゃがポックルを手に入れた方々という(集団)は、例外を享受している人々(集団)という意味で、「われわれ」なんだろうか。
というのが、上の図の云っていることだ。(絵とか写真というのは《テクスト》なので、つまりは云うのである)。
じゃがポックルは「なかなか手にはいらない」ものだ。「なかなか手に入らないもの」は、あたしの欲動(欲望とは違う=これの混同は小泉政治バルブのようになるか、サラ金地獄が待っている)にうまい具合に働きかけてくる。
このメカニズムに入り込むと、あたしはとたんに「みんな」になってしまう。つまりただの消費者となる。
これはカルビーにうまいことやられたな、なのであり、なんだか本当にうまいような気にもなってもくる。それは、じゃがポックルを手にしたことで、あたしは「私」を実現したかのように思える瞬間なのだ。
しかしそれが長続きしないのは[チロルチョコの大人買い-対象に近づきすぎて欠如そのものを失ってしまいそうな危険が不安を引き起こす私の中の子供]なのであって、
ラカンによれば、不安は欲望の対象=原因が欠けているときに起こるのではない。不安を引き起こすのは対象の欠如ではない。反対に、われわれが対象に近づきすぎて欠如そのものを失ってしまいそうな危険が、不安を引き起こすのだ。つまり、不安は欲望の消滅によってもたらされるのである。(スラヴォイ・ジジェク:『斜めから見る』:p27)
なのである。
「私」というものは、欲望が生み出すフィクションとしての根源的欠陥/起源の欠如だ。しかしこのフィクション(虚構)が成立するには、象徴すなわち自体愛的なフェティッシュ(欲望の対象となる「モノ」)が必要なので、消費(交換の原理)に慣らされているあたしは、「じゃがポックル」を瞬間的にフェティッシュにしているのである。
そのフェティッシュを手に入れたとき、まず湧き上がるのは、「希少種という特異性」に映された、これがあたしの根源的欠陥/起源の欠如の穴埋め、という満足感である。
入手困難なじゃがポックルを食べているあたしは素晴らしい。これこそ「私」である。
しかし、ぜんぶ食べてしまったらどうしよう。あたしは、入手困難なじゃがポックルを食べているあたしを失うことで、素晴らしい「私」を失うことになる。
だとすれば、また、じゃがポックルを買わなくちゃ、なのだ。ちょっと高いけれども、ヤフオクでも買えるしね、と消費のメカニズムに身を沈めていくのである。(じゃがポックルを例えばブランド品に置き換えても同じメカニズムが働く)。
しかしいくらなんでも、じゃがポックルが「私」なら、あたしは「じゃがポックル」なのかという不安が沸き起こる。(いくら希少種とはいえ、工場生産の商品である。それ以前にジャガイモである)。
「私」は、どこまでいっても、欲望が生み出すフィクションとしての根源的欠陥/起源の欠如であって、ジャガイモなんかじゃないわけだ。
「私」は〈対象a〉なのであり、あたしの欲望の対象が「私」なのであり、実現できない理想としての「私」であることで欲望なのだ。だからこそ欲望をあきらめちゃいけないのだが、それ(〈対象a〉)を、欲動を扇動する消費で穴埋めしているのが「みんな」なのである。
じゃがポックルを食べているあたしは、そんなことを考えながら、「うまいな!」などと言ったりする。それはあたしの遊びの時間であり、なにも、じゃがポックルは「欲動」にうったえる(消費者を扇動する)メカニズムを持っている、などというつもりもない。
ただ、じゃがポックルは、じつは本当にうまかったりするのである。だからまた欲しいな、とここに書くのである。ただそれは、あたしの欲望の対象ではなく、たんなるおねだりだ、というだけのことだ。
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ベルナール・スティグレール(著) |
Written by
: 2008年02月15日 10:48: Newer
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