愛するということ―「自分」を、そして「われわれ」を

愛するということ―「自分」を、そして「われわれ」を

ベルナール・スティグレール(著)
カブリエル・メランベルジェ(訳)
メランベルジェ・眞紀 (訳)
2007年7月31日
新評論
2000円+税


ボロメオの結び目と「私」「われわれ」「みんな」
ボロメオの結び目と「私」「われわれ」「みんな」

象徴界に「みんな」がいることの問題
生きづらさと「われわれ」が欠けているという思い

午前7時20分起床。浅草は晴れ。

スティグレールの本を読むのは、『象徴の貧困』以来だ。あたしはスティグレールが好きだ。いっていることがわかる(つもりだ)し、パトリとか、「街的」を考えるなら、そして、自分が自分になること(個体化)を考えるのなら、スティグレールの著作は、(たぶん)いま読める最良のものだと思う。

「街的」とは「私」がつくられていくプロセスのことです。

あたしは書いた。スティグレールはそれを、

私が「」になれるのは、ある「われわれ」に属しているからこそなのです。「」も「われわれ」も個になっていくプロセスなのです…(p25)

といってしまえる人だ。「個体化」がプロセスであること、そして「私」も「われわれ」も違いがないこと、こんなとことをさらっといえる人を、あたしは他に江弘毅しか知らない。さらに、

」が個となるためには、私の個体化は私が属する「われわれ」の個体化に参加していなければならず。またその「われわれ」の個体化の性質を分有しなければなりません。(p144)

ともいうのだが、スティグレールのいう「われわれ」が、あたしたちのいう「種」であり、「バロックの館の1階」であり、つまりこれは「種の論理」そのものなのだし、そして蛇足的に付け加えるのなら、この本は、あたしが事業者団体のIT化や地域再生関連で使っている戦略(つまり仕事上の哲学)である、

携わることによる共同性の意識が、作品を個人のレベルから、少しずつ集団のものとしてのレベルに肩代わりさせ、責任を分かち合うようになる(川俣正:『アートレス』:p45)

(そしてそこに「暦と地図をどう構築するのか」)の解説本でもあるだろう。(この『愛するということ―「自分」を、そして「われわれ」を』は勉強会の教科書にしてもいいと思っている)。

その記述は、ある部分は哲学的に、ある部分は精神分析的に、またある部分は政治的に、であり、ある意味変幻自在なのである。それは書評としてのまとめにくさにつながるのだが、しかしこれ以上あたしが何か書いてもしょうがないな、とも思う程に平易なことばで書かれている。(そのことで、このエントリーは、長い間「下書き」になっていた)。

この本をはじめて読んだとき、あたしは『象徴の貧困』ではなく、ロラン・バルトの『テクストの快楽』を思い出していた(この二つのテクストには35年の時間的な隔たりがあるのだけれども)。たぶんこのふつたつは同じような基体をもって書かれている(それはバルトのテクストの方が《テクスト》としてはずっと素敵ではあるけれども)。

それで先に『テクストの快楽』をブログに引っ張り出してきて、それを足場に本書に言及しようとしたのだが、その目論見は見事に頓挫している。

しかし、このような作業は手に入れたテクストを説明するだけに終わる恐れがある。計画は分裂せざるを得ないだろう。快楽については語ることができなから、動機づけという一般的な道をすすむだろうが、どの動機づけも決定的ではあり得ないだろう。(中略)一言でいえば、このような作業について書くことは出来ないだろう。(ロラン・バルト:『テクストの快楽』:p65)

スティグレールをまとめるには違う語彙と《テクスト》が必要なのだが、その目論見は頓挫する。(上のバルトの指摘のとおりなのだ)。

つまり、あたしがこの本をまとめようとすると、余計に面倒な語彙を使わざるをえなくなってしまうのだ。(それはあたしの力不足以外のなにものでもないのだけれでも)。そしてそれは、動機づけという一般的な道をすすむしかなくなる。それも中途半端にである。

つまりこの本に関しては(というかスティグレールに関しては)、余計な言及ができないでいた(いる)のだ。なので、とにかくも、ちゃんと買って読みましょう、というだけしかないのである。