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2019年03月03日|お知らせ



『街場の大阪論』 江弘毅を読む。

『街場の大阪論』

街場の大阪論

江 弘毅(著)
2009年3月18日
バジリコ出版
1400円+税

午前6時30分起床。岩見沢はくもり。江弘毅から新しい著作が届いていたので飛行機の中で読んできた。『街場の大阪論』である。 快速なテーマである。あたしの知っている闘う江弘毅がいる。

あたしが江弘毅を知ったのは、『「街的」ということ――お好み焼き屋は街の学校だ「街的」ということ――お好み焼き屋は街の学校だ』で、そのときあたしはこう書いた。※1

「地元」というのは、まさに自分が立っている地面そのものの範疇の場所で、いつも「自分」に含まれている。(江弘毅:『「街的」ということ』:p24-25)

こんなフレーズは、よほど思考の軸がしっかりとしていないと書けるわけがない

私はこのフレーズをもってこの本(つまり著者である江弘毅氏)を信頼することとした。 

それからのあたしは、江弘毅の発明品である「街的」という語彙をフツーに使うようになった。※2 それは便利な言葉というよりも、この言葉自体が(あたしを代弁する)思想だったからで、「街的」とは思想なのである。

思想を必要とするのは闘う人であって、闘わない人に思想はいらない。女を口説くのに思想を語る人は三流の詐欺師であるが、おおよその思想というものが詐欺のようなものであるのは、闘わない人間がそれをいう(もしくは使う)からである。

「街的」は闘う思想であることで、あたしは「街的」(という語彙)を必要としたのだし、『「街的」ということ』で独り闘う江弘毅をいとおしいと思ったのである。

ただ勘違いしてもらっては困るのは、言葉(テクスト)になる前の「街的」は、思想でもなければ闘いでもないのである。「街的」は「われわれ」のフツーの実生活でしかない。べつに格好よくもないし、トレンドで語るものでもないし、悲惨なものでもない。しかし「街的」は、それを言葉にしようとした途端、闘う言葉となる。だから

「ウチ大阪、好っきやねん」「コテコテの何が悪いのん」「ベタでええやん」。大阪についてこの手の物言いをそれこそコテコテの大阪弁で喋る人間はとても苦手である。(p84)

と始まる「〈街場〉の大阪人は知っている」のように、始まりは「おい、こら、ちょっとまて。」なのである。しかしそれはやがて泣きのフレーズで終わるのだ。

そういった「大阪コテコテ&ベタ万歳」言説については、どこか居心地の悪さはあるものの「それは、もうええやん」である。なぜなら、牛の内臓を「放るもん(捨てるもの)やからホルモンでええやろ」と客に出してきた大阪人にも、それ以上の自分の〈実生活〉が他人に目の当たりにされ、されにそれ以上を〈消費〉されることは過酷すぎるからだ。(p89)

こうしてひとつのテクストの始まりと終わりの間には、江弘毅の思考プロセスとしての「街的」がある。

思考のプロセス――それは「街的」を書くにはちょっと根性がいるで。※3 のことだ。「街的」は闘争の武器には違いないが、そこで闘っている相手とは、「大阪コテコテ&ベタ万歳」言説なのではく、マスコミでもなく、ましてや世間でもないのである。

敵は「大阪コテコテ&ベタ万歳」言説が苦手だと思う江弘毅自身――つまり自分自身――である。なぜに俺はそれを苦手と思うのか、なのである。

世間というのは、普通こんなことを考えなくても十分生きられるようにはなっている。いやむしろ、そんなことはないものとした方が快適に生きられることになっている。

しかし「街的」なテスクとはその快適さを疑うのだ。それを「ウソ」だと思うのだ。それは言葉を疑うことである。なぜなら「ウソ」は言葉に乗ってやってくるからだ。 

それを「ウソ」だと思う心象は「街的」な実生活者ならフツーに持ち合わせていることでしかない。けれどそれは言葉にはならないものとしてある。野生の思考である。しかしその違和感を(あえて)テクストにしようとするのが江弘毅なのであって、その意味で江弘毅はステファヌ・マラルメの末裔である。※4

「街的」をテクストにすること。それは「ウソ」と同じ土俵にあがることの闘いなのである。江弘毅のテクストも、「大阪コテコテ&ベタ万歳」言説も、(特に東京からみれば)同じ類のものとしか思われかねない過酷さが待ち受けている。

だからなおさら「街的」なテクストは己との戦いとなる。書くことで悶え苦しむのである。その闘いのプロセスが、まるでナメクジが這った跡のようにあらわれてくるのが江弘毅のテクストであることで、『街場の大阪論』は闘う江弘毅なのだ。

だから、闘う皆さんはちゃんと読むように、なのであるな。

※注記

  1. 「街的」ということ。 参照
  2. インターネット上では、間違いなくあたしが最多利用者である(たぶん)。
  3. 「街的」を書くには、ちょっと根性が要るで。 from 140B劇場-浅草・岸和田往復書簡
  4. マラルメ詩が小さな帆船に乗り込んで漕ぎ出した、近代の荒れ狂う多様体の海は、百年後には比較的穏やかな乱流となって、表層の全域にそのカオスの運動を繰り広げるようになった。そのことは、もはや「高踏的」な知的エリートばかりではなく、インターネットを手にした多くの大衆の体験し、知ることとなったのだ。マラルメはその多様体の隅々にいたるまで意識のネットワークを張り巡らせ、大切な接続点でおこっていることのすべてを言語化しようと努力した。これに対してネットワーク化した社会を生きる大衆は、小さな自己意識の周辺に集まってくる無数の前対象を、反省に送り返すことなくイメージ化することによって、現実の表現をおこなっているに過ぎない。それはとりたててすばらしいことではないが、かといって陳腐なことでもない。ハイブリッドの氾濫、それはまぎれもない現実であり、十九世紀にマラルメのような人物がはじめて意識した問題は、いまや今日の大衆の実感になっている。(中沢新一:『フィロソフィア・ヤポニカ』:p365)
Tags: , 江弘毅 , 街的

Written by 桃知利男のプロフィール : 2009年03月10日 09:51: Newer : Older

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