玄田有史希望学

午前6時起床。浅草はくもり。日曜日(2011年6月12日)の東京新聞を見ていて、玄田有史先生の「希望学」という言葉を目にした。

――久し振りに目にするそれは2005年に始まった、とあった。なるほど、あたしのブログの履歴を見れば、2005年10月18日の話として「希望学」は登場している。

「希望学」をあたしは、当時興味のあった「欲望」と重ね書きしている。

しかし「希望」ってなんだろうなっていつも思う
(わたしの場合は「欲望」なんだけれども それが結局は動き出すエネルギーなんだ)

そう、希望とはなんなんだろう、と考えることが「希望学」だった(はずである)。


それでも屈しないことも、希望だ

東京新聞には岩手県釜石市に玄田先生が行って感じたことが書かれている。勿論、3月11日の震災の被災地であるが、震災から3ヶ月、まだまだ釜石は希望を話し合う状況ではない、という。

しかしあきらめが悪い釜石の人はやがて再生するだろう、とも。「なんでそこまでやるんですか」と聞くと、「生まれた場所は選べねえからな」と答えが返ってくる。そして、あれがえない圧倒的暴力を目の前にし、それでも屈しないことも、希望だ、と玄田先生はいうのだ。

「生まれた場所は選べねえからな」

「生まれた場所は選べねえからな」は、今回の震災で感じた、(あたしには)どうすることもできない、どうしようもないものだ。これを「町内会的」とか「街的」とかと呼んでいいのだろうか、と思ってしまうが、これが、今回の震災で一番に感じたことだった。

東京を故郷としないあたしが東京に住んで、決して感じられない感覚をこの言葉は持っているように感じる。それと共に、いつまで経っても持ち得ないものを、あたしの目の前に突きつけてくるように感じたのだ。

それを「欲望」と呼ぶのなら、その「欲望」ははたして、希望と同じものになり得るのだろうか。

そしてその欲望を生み出す言葉は、勿論「生まれた場所は選べねえからな」なのだが、この言葉をあたしは一生使うことはないだろう(――だから町内会的、街的なのだ、とあたしは思う)。

最後に玄田先生はこういう。隣接の大迫町には「ひょっこりひょうたん島」のモデルになった島があり、主題歌の通り「だけど僕らはくじけない」なのであり、亡くなった人も全部含めて「泣くのは嫌だ笑っちゃおう」なのだ、と。

「育った場所は自分で選んだ場所だからな」

しかしこんな強さを、残念ながら持ち得てはいない。あたしは3ヶ月以上落ち込んでいるに違いないだろう。それでも「だけど僕らはくじけない」なのであり、「泣くのは嫌だ笑っちゃおう」なのか。

それは「生まれた場所は選べねえからな」ではなくて、「育った場所は自分で選んだ場所だからな」なのである(のかもしれない)。

そして「育った場所は自分で選んだ場所だからな」を「生まれた場所は選べねえからな」と同等に発するとき、(あたしの)新しい故郷のようなものも見えて来そうな気もするのだ。