伊藤若冲 生誕 296 周年
伊藤若冲 生誕 296 周年


伊藤若冲 鳥獣花木図屏風

午前4時15分起床。浅草はくもり。今朝のGoogleは伊藤若冲の誕生296周年を祝うものだったが、伊藤若冲は2006年の8月に鳥獣花木図屏風を見てきた記憶があり、その時の記憶が蘇ると共に、何か書かなくては、という思いが沸いてくる(だから久し振りに書いたのだが)。

伊藤若冲 鳥獣花木図屏風(右隻)伊藤若冲 鳥獣花木図屏風(右隻)

伊藤若冲の描いた動物たちのまななましい姿を見ていると、人間と動物とのあいだに同質な生命の流れが流通しているのを感じて、不思議な幸福感に包まれます。その昔、まだ人間が動物や植物と分離していなかった神話的な時間が、そこには取り戻されているからです。(中沢新一:『対称性人類学』:p224)

中沢新一はうまいことを云うな、と思うのは何時ものことだが、対象性無意識、縦に書く人間の創造性、人を幸せな気持ちにさせるスーパーフラットを強調するための文章である、と思えばよいが、これを本当に感じたかったなら、本物を見ることである、と無茶苦茶なことを(あたしは)云ったりするのだ。

本物は想像を超えてでかく、はめ込まれたタイルのような一枚々の、絵の具のパズルのようなもの(切り絵といてもいいだろう)が、これでもか、という量で動物達を描き上げていくのだが、その枚数を数えるまでもなく、幾つ積み重ねれば一体これが出来上がるのか、と気が遠くなるのだ。

そして少し遠ざかってこの絵をみれば、沢山の動物達が屏風を埋めるのだが、白く浮かび上がる、唐突ともいえる象が、あたし達の心を惹き付けるだろう。それは、この屏風の象の丸々とした姿と、背中に乗せた鞍と(絵には描かれなかった「わたし」)だが、なるほどここで、あたしと象ばかりではなく、ここに書かれた全ての動物にも、同質な生命の流れが流通しているのだな、と気がつくのだ。