崎陽軒のシュウマイ
崎陽軒のシュウマイ


崎陽軒のシュウマイ

午前6時5分起床。浅草は晴れ。これを食べたのは何時の頃だろう、と写真を整理していて思った。崎陽軒のシュウマイである。写真の日付を見れば1ヶ月程前の1月29日になっているので、たぶんその頃に食べたものなのだろう。

1ヶ月前の事など覚えていないのは何時ものことで、それも食べたものなど、いちいち覚えてはいられないのだが、少しでも記憶に残るようにと、「ブログを書くというのは、将来に向かって、過去の記録を残す事だ」、となる。しかし、これは写真だけ撮っても、ブログに書くに値しなかった、所詮はシュウマイなのである。

しかし、このシュウマイはある意味天才で、うまいことは分かっているし、ちいなさな包みが5×6に綺麗に並べられれているその姿は、機械作業のすばらしさを教えてくれる。食べられる寸前のこれは実に美しい。

しかし、これはすでに食べられて無いのであるが、ここに写っているものは食べられる前のものであり、これが写真のノエマ(《それは=かつて=あった》、あるいは「手に負えないもの」※1)のおもしろさだとわかる。

左下にある醤油入れの、人を食ったような顔さえも、どこか憎めないのだが、ここでふと思って、「この醤油入れはどここに行ったのかな」、と探せば、探すだけ無駄なことなのは初めから分かっていたことなのだが、探さないではいられない、人の心のひだの隙間か、(って何を語っているのだ、あたしは)。

※注記

  1. それゆえ、「写真」のノエマの名は、つぎのようなものとなろう。すなわち、《それは=かつて=あった》、あるいは「手に負えないもの」である。 (ロラン・バルト:『明るい部屋―写真についての覚書』:p94