商店街はなぜ滅びるのか

午前6時15分起床。浅草はくもり。この本は、ある意味難しく、ある意味簡単に読める。つまり、その内容は簡単に書けるわけもない、ということだが、あたしは、とても良くまとまった本だ、と思うのだ。それは、商店街は、伝統的な存在ではなく、二〇世紀になって人為的に造られたものである、としているところにある。

全くその通りだと思うのだ。これは、地場の中小建設業も同じ文脈で語られるものなのであり、つまり、あたしの言っている、『中小建設業は政策的に生み出された産業でしかない』、というのと、同じ文脈を背負っているのである。

それはつまり、「日本型福祉社会」、と云ってもいいだろうし、「開発主義」を引きづってきた、と云ってよいだろが、なによりもこの本は、商店街がなくなることを、よし、とはしていないのである。そこが(この本をあたしが)認めるところなのだ。

「日本型の福祉社会は、個人に自由で安全な生活を保障するさまざまなシステムからなる。そのようなシステムの主なものは、

  1. 個人が所属する(あるいは形成する)家庭、
  2. 個人が所属する企業(または所得の源泉となる職業)、
  3. 市場を通じて利用できる各種のリスク対処システム(保険など)、
  4. 最後に国が用意する社会保障制度である。

すなわち、高度福祉社会は、個人の生活を支えるに足る安定した家庭と企業を前提として、それを(3)によって補完し、最終的な生活安全保障を国家が提供する、という形をとるものである。そこで重要なのは、まず家庭基盤の充実と企業の安定と成長、ひいては経済の安定と成長を維持することである。これに失敗して経済が活力を失い、企業や家庭が痩せ細って存立が困難になっていく中で国が個人に手厚い保護を加えるという行き方は「福祉病」への道であるといわなければならない。今日、大多数の日本人は右の(1)-(4)の安全保障のシステムに支えられて「それほど悪くない人生」を送ることができる。(1)-(4)のシステムには基本的な欠陥はないと見てよい。今後は高齢化の進行に応じて、これらのシステムに必要な手直しを加えていけばよいであろう。」※1

福祉国家の4つの類型これの意味さえ分かっていれば、なぜ、商店街がなくなることを、よし、としないのかは、さほど理解に苦労はいらないだろうし、では、問題はそのシステムが破綻した後、さて、どうすればいいのか、なのであることにも気がつくだろう。

つまり、それは(ちょっと遅い気もするが)「今」のことである。しかし、この本では、いまいち弱いと思う、というか、理想とする回答はわかるが、これを実行するとなると、なかなか後押ししてくれる人がいないのである。

でも、引用した象限図は、うまくできているな、と思ったので紹介しておくし、そして、その象限図に添えられた文章を、そのまま下に引用しておきたい(だから読んでほしい)。

地場の建設業は辛うじて生き延びる人達もいるが(と思うが)、商店街はこのままだと、本当に滅びてしまうかもしれないところにあるのである。

わたしは、「商店街」という理念を再評価し、今後の地域社会のあり方を構想するために、武川の「規制国家」と「給付国家」の二
分類に、「個人」と「地域」という軸を組み合わせて、四つの類型をたててみたい(図13)。
Iの類型は、いまや福祉国家のメインとみなされるようになった「個人に対する給付」である。文字通り、国家が個人に対して給付をおこなう政策であり、具体的には、生活保護、年金などの社会保険、児童扶養手当などの社会福祉があてはまる。
Ⅱの類型は、初期の福祉国家で導入されることになった「個人に対する規制」である。これは、労働政策に多く見られる福祉国家政策である。たとえば、法定労働時間などを定めた労働基準法、最低賃金法などがあてはまるだろう。
Ⅲの類型は、自律した地域コミュニティをつくりあげるための「地域に対する規制」である。具体的には、乱開発を防ぐために、土地利用規制(ゾーニング)をおこなう、あるいは、地域の商業を守るために距離制限を設けることなどが当てはまる。
Ⅳの類型は、完全雇用実現のためにおこなわれる「地域に対する給付」である。ケインズは、不況下の経済を再生させるためには、完全雇用の実現と有効需要の創出が必要だとした。日本では、以上の目的のために、公共事業や地方自治体への交付金が実施された。これは地域に対する給付といえるだろう。(『商店街はなぜ滅びるのか』,P200~201)

※脚注

  1. 【資料】『日本型福祉社会』(自民党:1979)。 from モモログ