笑福亭遊喬
笑福亭遊喬


三遊亭あし歌
三遊亭あし歌

上野家ぱん駄
上野家ぱん駄

2月2日の演芸会は、笑福亭遊喬さんの「尻餅」、三遊亭あし歌さんの「大工調べ」、上野家ぱん駄さん(素人さん)の「やかん」で楽しんでいただいた。

今回のテーマは「現代の長屋」ということで、むりをいって、長屋にちなんだ噺をしていただいたのだが、寄席で統一テーマでやるなんてことはありえないことで、あたし的にはとても面白かったし、やってよかったな、と思っている。

あし歌さんは、身体はますますメタボリック(アンドロメダ)なんだけれども、噺はストイックさを増していて、この人の声は中性的なハリがあるので、「侠」がなかなか出にくいにもかかわらず、大工の棟梁の啖呵なんて、あたしゃうっとりとして聞いてしまいましたよ。

一方、遊喬さんは、そもそもが「侠」の人なのであって(笑)、あんましやり過ぎると洒落にならないところがあるのだけれども、しかしそのへんは、押さえ処を心得ているというか、上方落語の反則というか、江戸弁でやるよりもずっとやわらかく、空間の広い噺になっているわけで、ご両人とも、年々成長されているな、と贔屓としては、うれしい芸をみせていただいた。

なぜ勉強会に落語を取り入れているのか

さて、今回のテーマ(長屋)については、先に書いたので繰り返さないが、なぜに勉強会に落語を取り入れているのか、ということについて少しだけ書いておこうと思う。

語学の学習における最も効果的な手法は、話す→聞く→書く→読む、の順番で学ぶことである。聞くよりも先に話すのであり、読むよりも先に書くのである。これは、情報を発信することから始めることで、情報が見える能力が共進化できることでもある。(あたしのIT化理論=つまり何故ブログを書くのか)

しかしそんなことは今更桃組の皆さんにはどうでもよくて(大丈夫?)、いってみれば、あたしは書く人として、音楽に嫉妬しているってことなのだ。

日本語(というか多くの言語)には二本柱があって、それは書き言葉と話し言葉、ということになる。

落語はもちろん、口承による話し言葉の「話芸」であって、それは音楽であり、肉声というリズムと、音の芸だ。

つまり「話芸」には、その音楽性を自由に操ることを可能とする独自の口調や間の取り方がある。じょうずな語り手は、そのリズム感と音感の調整を自由にあやつり、聴衆を飽きさせることなく陶酔させてしまう。

その表現は、まるで水の中を泳ぐ魚のように自由なものだ。

「落語」にしても、話し手によって自由にアレンジは可能だし(それも客席の空気を読みながらだ)、昨今のプレゼン技法なんていうものが、阿保らしく思えるほどの躍動感と説得力を自習自在に手に入れることができる。

もちろんそれを手に入れるには時間がかかる(修行)。そういうキアスム性を絶対に手放さないのが「話芸」の世界なのだが、それは今回の勉強会では特に強調するところではない。

強調したいのは、そういう音楽性を孕んだ「口承文芸」としての「落語」がもっているイリュージョン性、それこそが日本語なのじゃないか、とあたしは思うということだし、そういう日本語の聞き方なのである。

「話芸」の凄さとは、伝える側は勝手にしゃべっているだけで、そのイメージを勝手に描き膨らませるのは聞いている方、というべらぼうさに極まる。

つまり、話し手の技量も重要だが、聞くほうの器量によっても、どうにでもなるものなのである。それが音楽だということなのであって、そういう日本語のもつ音楽性が、あたしは好きだし、嫉妬しているし、憧れの対象なのである。(つまり[対象a]だわね)。

しかしそれは書き留めた(文字化した)とたんに駄目になってしまうものなのだ。

話し言葉のもつ躍動感は、書き留めた途端に凍結してしまい氷塊にようになってしまう。動きを失い、リズムが消え、肉声のもつ温度が消える。

それは「話芸」とはまったく別なものでしかない――ただ、俳句や短歌というのはちょっと特別で、いまや書き言葉のようになってしまっているけれども、本来は音楽なんだ、とあたしは思っているし、書かれたものも、音楽として「うたうもの」だと思っている――。

だから、落語のような「話芸」は、あれこれ難しく考えないで、もちろん文字化なんかする必要もなく、話し手が話しているものを、音の塊のように、あるがままに受け止め、イマジネーションしましょうってことなんだな。

そしてそこにはキアスムは機能していて、つまり全人格を賭けて、噺をかたまりのまま受け止める〈私〉は必要だということだ。

そして「落語」は、繰り返し聞くことに意味がある。つまり、同じ噺でも、マジネーションする〈私〉によって、受け取り方は違ってくる。

それは〈私〉の変化の実感であって、そこに話し手の変化も加わることで、キアスムは複雑にからみあい、年を取ることで、わかってくる、つまりいいことだってあるんだよ、ってことがわかってくるだろう、ってことなんだな。