たけくらべの美登利
たけくらべの美登利 鏑木清方


午前6時40分起床。浅草はくもり。昨日からなぜかテクストが書けなくなってしまっている。それはスランプというような大層なものであるはずもなく、ただ腹の中から「書くぞ!」という気力が沸かないのだ。別名「やる気がない」ともいう。

これは放っておいてもそのうち治るのだが、朝起きたらテクストを書くという生活のリズム(存在するための習慣)が壊れてしまうのが困る。

一葉女史の墓なのでぐだぐだにならないように、午前中は雑用をこなしに町内会(郵便局とか銀行とか丸重とか)を行ったり来たりしてみた。(書いていて思い出したけれども、三社祭奉納金も納めてこなくちゃいけない)。

それでも脳みそが活性化しないのは、それが日常であるからで、なにか右脳に刺激はないかな、と書架から『樋口一葉「いやだ!」と云ふ』を引っ張り出してきた。

口絵の「一葉女史の墓」(鏑木清方)を眺める。

《一葉の墓によりそう美登利。着物の布が墓をなでるように流れ、手には白い水仙。熱い情熱と潔さ、その両方が見える》(『樋口一葉「いやだ!」と云ふ』より)

美登利は樋口一葉が『たけくらべ』で生み出したキャラクターであって、一葉の墓に美登利がよりそうわけはないのである。

つまりこれは、鏑木清方の想像界の絵だけれど、彼の脳みそにデータベースとして蓄えられた、文学の教養と日本画の技術(そして美人の要素)のハイブリッドなんだろうな、と思う。

ネットでみつけた「たけくらべの美登利」もいい。

それであたしは何を考えていたのか、というと、これってデ・ジ・キャラットと同じだよね、ということなんだわ。w

デ・ジ・キャラット

データベース消費(東浩紀)

近代からポストモダンへの流れのなかで、私たちの世界像は、物語的で映画的な世界視線によって支えられるものから、データベース的でインターフェイス的な検索エンジンによって読み込まれるものへと大きく変動している。(東浩紀:『動物化するポストモダン』:p78)

データベース消費の構造  デ・ジ・キャラット

(左図:東浩紀:『動物化するポストモダン』:p79)
(右図:でじこ:
http://www.broccoli.co.jp/dejiko/

だからどうした、というものでもないのだけれどもね。ただ無理矢理に、ブリコラージュ的に、そしてマッシュアップ的に、なにか書いてみただけのことだ。