午前6時起床。浅草は晴れ。上の画像は12月18日、山鹿での夕餉のひとこま。川ガニ(モズク蟹)と鮎である。これはお店のメニューではなく、山鹿市管工事業協同組合の事務員さんからの差し入れである。彼女の父上は漁師なのかもしれない、といったら否定されたけれど、あたし的には漁師である。
あー、味よしの「かにおじや」
あたしには、山鹿の忘れられない味があって、それは味よしの「川ガニのおじや」だ。
それは忘れもしない2005年5月30日の出来事で、味よしのおやじが出してくる菊池川のある山鹿の暦と地図そのものの料理にあたしは泣いた。
その涙が今も乾かないのは、味よしの「かにおじや」は永遠に食えなくなってしまったからで、それはかなしい※1。
川ガニはますますかなしい
そのかなしさが、18日の夜は加速してしまった。川ガニはますますかなしい。日本にいるモズク蟹は上海蟹とは同属異種である。つまり同じモズク蟹なんだけれども生まれと育ちが違う。生まれ育ちが違うものを種という。
シナモズクガニである上海蟹は、今やスーパースターになったけれど、日本の河川の何処にでもいる(いた)モズク蟹は、ずっと二軍のままなのである。
しかしあたしは知っている、君こそスターなのだ。それはまごう事なき純生産、菊池川からの贈り物である。だからあたしたちは河川という純粋贈与(コルヌコピア)を大事にしなくてはならない(というかこれは時々荒ぶる神だったりするので共生の方法を考えなくてはならない)。それにしても菊池川の鮎の目つきの悪さよ。あー、菊池川、くるおしい。
これでぬる燗をなめるように
そのミソのうまさは破格である。
※注記
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かなしいというのは、痛いとか苦しいとかそういうものでなく、それは「誰かと別れること」や「何かをあきらめること」の必然的で根源的なかなしさです。そのかなしさが、わたしら街的人間をタフにするのでしょう。@江弘毅