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2007年01月26日(金) Tweet
悪党的であること。
技術者や職人(芸人もだね)というのは、ある意味ムラ的な円環の外に居ることで、気難しさ(扱いにくさ)を備え、ムラからは敬遠されてはいたが、その技術性をもって一人前として認められることで、つまり自由な民だったのだと(私は)考えている。
それが何時の間にか、ムラ的な円環に取り込まれてしまうことで、技術者や職人は単なる円環の中の機能でしかなくなってしまった。
その機能も、物言わぬ機能あることで、悪党性はさらに抑圧され虚勢されてきたのだと(私は)思う。
それが耐震偽装や入札妨害(官製談合問題)におけるわれわれの本当の弱さなのではないかと(私は)考えている。
以下は2004年12月18日の日記の再掲である――改行等の一部修正を行った。
そしてこれは、今朝書いた「耐震偽装のこと。」の補足のつもりで引用している。
【悪党・種に触れる】
昨晩は、予定通り、わたしんちの忘年会で、気の置けない方々と、春風亭美由紀さまと一緒に、午後7時から12時までね、5時間ほど、まったりとした時間をすごした。
わたしはこれがやりたかったのだ。
皆さん、連夜の忘年会のようで、少々お疲れの様子だし、だからね、まあ、こういうまったり、もよいだろうと。
美由紀さんの芸は、確実に進化していて、昨晩初めて「踊り」をみせてもらった。
高座で、踊りを見せてくれる師匠連中も少なくなったことだし、色物として自分の芸に幅を持たせるにも、それは、とてもよいことだと思う。
そして思ったのは、芸っていうのは、「かたち」なのだ、ということだ。それは「かたち」の美なのだ。
それは、フォーマットではなく、「かたち」なのだ。それがなくては、なにも成り立たないものとしての「かたち」なのだ。
フォーマットが個を殺すものなら、「かたち」は、個を生み出すための基底だ。
「かたち」を身につけるには、身体で覚えるしかない。それは、繰り返し行われる、稽古であり訓練である。
身体で「かたち」を覚える。身体に「かたち」を染み込ませる。
けれどそれは個を殺すことはない。
なぜなら「かたち」は、それを身につけると同時に、それを足場とした個を表出させるからだ。
己のどうしようもない身体としての特性は、表現の中に必ずいづる。
それが個性だろう。
つまり「個」の基底としての「種」が「かたち」なのだと。
そして、「かたち」という基底がなければ、芸を楽しむこと、つまりその個性を感じることさえもできない。
ああ、と思った。
酒で壊れかけた脳みそで思った。
俺はリアルな「種」に触れたかったのだ。
土曜の夜の浅草で、種の論理が一層のリアルさをもって鼓動を始めた。
宴が終わり帰り道。
冷たい外気に触れながら、思うのは、日常における種の希薄さ。
(と同時に個性の希薄さ)。
われわれは、なにを種として生きているのだろう。
明日はうちの落語会である。
落語も典型的な「かたち」の芸である。
それに触れることで、少しだけ己の悪党性――自由への欲望を目覚めさせたいと思うのだ。
投稿者 momo : 2007年01月26日 14:19 : Newer : Older
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コメント
技術者は円環の中でしか機能しなくなった・・・
とても共感できるお話です
趣味で木工教室に通っているのですが
職人たる「先生」の姿勢を見ると
自らの「かたち」をもった職人さんだなあと
感じるのです
「かたち」・・・
われわれは「とりあえずかたちにする」でしか使えない「かたち」
われわれは技術屋としての「かたち」を持つことが出来ているんだろうか・・・
投稿者 辺境地のコンサル : 2007年01月29日 17:26
>辺境地のコンサルさん
コメントありがとうございます。
職人的なものを、うまく言い表せなくて私は、「悪党的」という言葉を使っていますが、これは網野善彦の言葉を援用しています。
私も一応技術者の端くれではありますが、私がバロックの館の一階部分と呼んでいる基底になるものが、とても希薄になってきてしまっているように感じています。
つまりそれが職人的なものなのでしょうが、それもまた絶滅危惧種なのかなと感じています。
投稿者 momo : 2007年01月30日 12:12
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