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2019年03月03日|お知らせ


2007年01月26日(金) 

悪党的であること。

技術者や職人(芸人もだね)というのは、ある意味ムラ的な円環の外に居ることで、気難しさ(扱いにくさ)を備え、ムラからは敬遠されてはいたが、その技術性をもって一人前として認められることで、つまり自由な民だったのだと(私は)考えている。

それが何時の間にか、ムラ的な円環に取り込まれてしまうことで、技術者や職人は単なる円環の中の機能でしかなくなってしまった。

その機能も、物言わぬ機能あることで、悪党性はさらに抑圧され虚勢されてきたのだと(私は)思う。

それが耐震偽装や入札妨害(官製談合問題)におけるわれわれの本当の弱さなのではないかと(私は)考えている。

以下は2004年12月18日の日記の再掲である――改行等の一部修正を行った。

そしてこれは、今朝書いた「耐震偽装のこと。」の補足のつもりで引用している。

【悪党・種に触れる】

春風亭美由紀昨晩は、予定通り、わたしんちの忘年会で、気の置けない方々と、春風亭美由紀さまと一緒に、午後7時から12時までね、5時間ほど、まったりとした時間をすごした。

わたしはこれがやりたかったのだ。

皆さん、連夜の忘年会のようで、少々お疲れの様子だし、だからね、まあ、こういうまったり、もよいだろうと。

春風亭美由紀美由紀さんの芸は、確実に進化していて、昨晩初めて「踊り」をみせてもらった。

高座で、踊りを見せてくれる師匠連中も少なくなったことだし、色物として自分の芸に幅を持たせるにも、それは、とてもよいことだと思う。

そして思ったのは、芸っていうのは、「かたち」なのだ、ということだ。

それは「かたち」の美なのだ。

それは、フォーマットではなく、「かたち」なのだ。

それがなくては、なにも成り立たないものとしての「かたち」なのだ。

フォーマットが個を殺すものなら、「かたち」は、個を生み出すための基底だ。

「かたち」を身につけるには、身体で覚えるしかない。

それは、繰り返し行われる、稽古であり訓練である。

身体で「かたち」を覚える。

身体に「かたち」を染み込ませる。

けれどそれは個を殺すことはない。

なぜなら「かたち」は、それを身につけると同時に、それを足場とした個を表出させるからだ。

己のどうしようもない身体としての特性は、表現の中に必ずいづる。

それが個性だろう。

つまり「個」の基底としての「種」が「かたち」なのだと。

そして、「かたち」という基底がなければ、芸を楽しむこと、つまりその個性を感じることさえもできない。

ああ、と思った。

酒で壊れかけた脳みそで思った。

俺はリアルな「種」に触れたかったのだ。

土曜の夜の浅草で、種の論理が一層のリアルさをもって鼓動を始めた。

宴が終わり帰り道。

冷たい外気に触れながら、思うのは、日常における種の希薄さ。

(と同時に個性の希薄さ)。

われわれは、なにを種として生きているのだろう。

明日はうちの落語会である。

落語も典型的な「かたち」の芸である。

それに触れることで、少しだけ己の悪党性――自由への欲望を目覚めさせたいと思うのだ。

Tags: 種の論理 ,

投稿者 momo : 2007年01月26日 14:19 : Newer : Older

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コメント

技術者は円環の中でしか機能しなくなった・・・
とても共感できるお話です

趣味で木工教室に通っているのですが
職人たる「先生」の姿勢を見ると
自らの「かたち」をもった職人さんだなあと
感じるのです

「かたち」・・・
われわれは「とりあえずかたちにする」でしか使えない「かたち」

われわれは技術屋としての「かたち」を持つことが出来ているんだろうか・・・

投稿者 辺境地のコンサル : 2007年01月29日 17:26

>辺境地のコンサルさん

コメントありがとうございます。

職人的なものを、うまく言い表せなくて私は、「悪党的」という言葉を使っていますが、これは網野善彦の言葉を援用しています。

私も一応技術者の端くれではありますが、私がバロックの館の一階部分と呼んでいる基底になるものが、とても希薄になってきてしまっているように感じています。

つまりそれが職人的なものなのでしょうが、それもまた絶滅危惧種なのかなと感じています。

投稿者 momo : 2007年01月30日 12:12

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