ゴーマニズム宣言EXTRA パトリなきナショナリズム

ゴーマニズム宣言EXTRA パトリなきナショナリズム

小林よしのり(著)
2007年6月18日
小学館
1300円+税


午前6時起床。浅草は雨。『ゴーマニズム宣言EXTRA パトリなきナショナリズム』については、先に「パトリ」について書いたが、収録されている『国家にとって「結婚」とは何なのか?』は(私的に)興味深いところがあったので少しだけ言及し、記録しておきたいと思う。

論旨

  • 「少子化」は、緊急の大問題だ!
  • なぜ出生率は下がったのか。
  • 女性の選択幅が狭まったのだ!
  • なぜなら経済的に専業主婦が不可能になってきた――小泉前首相によって決定的に日本の経済構造の改革が推進され日本中の中間層が沈下して、下流層が膨張してしまった。
  • 女性の社会進出は進む――それが新自由主義だが全く不思議なことに女性の社会進出を快く思っていなかった自称・保守派が小泉・竹中の改革路線を支持してしまった。
  • それは「女は家を守るべき」と考えていた保守派の固定観念も、女性は男と対等に社会進出すべき」と考えていたフェミニズム派やリベラル派の思惑も超えた事態だ。
  • 高度経済成長期には「未来はあかるい」「給料はあがるものだ」という希望があった。
  • (しかし今は)いくら景気回復を「勝ち組」が叫んでみても、「下流層」の将来不安はいずれ解消されるという見通しは立てられない。(トリクルダウンの不機能)。
  • この容赦なき弱肉強食の結果として見えてきた「格差社会」ゆえの将来不安を前に、30代女性の未婚者はあせっている――負け組の男と結婚して子を育てる勇気などないのがキャリアウーマンだ。
  • しかし出産タイムリミットは迫ってきている――「負け犬」という世間の圧力。
  • 生涯非婚でも子供だけは生んでおきたいという女性もいる――シングルマザーの増加。
  • シングルマザーや共働き夫婦も、安心して子供を生み育てられる社会環境を、緊急につくるべきだと思う。

漫画をテクストにまとめるのは難しい……が、小林の主張はおおよそ上記のようなものだろう。こうしてみると小林の「結婚」に対する言説は少子化の問題と密接に結びついて、小林はその(少子化)原因を日本のネオリベ化が生み出した格差社会だ、としている。

少子化とナショナリズム

少子化の問題は、子供を生むことの問題であり、それは世代的再生産・連続性、人間の動物的な部分-生殖の問題であり、「誕生」の問題である。

これは人間の社会にとっては、とても根源的な問題であることで、語る人の立場をかなり明確に表徴してしまう。

小林の立場は当然に、「生めよ殖やせよ」なのだが、そのためには『結婚の固定概念を考え直さなくてはならないところまできている』(p182)という。なにしろ「 生涯非婚でも子供だけは生んでおきたいという女性もいる」のだから。

そうなったらあちこちで種をばらまいてくるのに…/いやこれはわし自身の「私」情で言うのはない。「公」のために!/ナショナリストとしての主張だ!/とにかく今までの馬鹿保守の考え方では日本は守れん。(小林:p182)

私にはとてもそんな能力はないけれども……w、それはさておき、私は締めくくりにある次のことばが気になった。(それは文脈からいえばなにか唐突でさえある)。

たとえ家族全員で手をとってくれたとしても、死んであの世に逝くのは自分一人ではないか!(小林:p192)

これはハイデガー哲学でいう、死が絶対的に固有(誰も他人の死は経験できない)でありながら、万人共通のもの(誰もが死ぬ)、ということのだ。「誕生」とはこの裏返しである。つまり誕生は万人共通のものでありながら、誰も他人の誕生は経験できない。(参照:東浩紀・北田暁大:『東京から考える―格差・郊外・ナショナリズム』:p258-259)

こんな根源的なものを持ち出すことで(意識的か無意識なのかは知らないが)、小林は、

「少子化を憂うがゆえにナショナリズム」「ナショナリズムゆえに少子化を憂う」というスタンス(東浩紀・北田暁大:『東京から考える―格差・郊外・ナショナリズム』:p257)

を取ろうとしているのか。

それはとても単純な理論なのだけれども、誕生の問題が人間社会において根源的なものであるがゆえに、潜在的にネイションを強調する圧力は強い――未婚で子供を生まないという選択を(個人の自由な選択として)尊重しても、皆がその戦略を選択すれば、そもそも社会はなりたたなくなってしまう。

しかし、

北田 誕生、血に行き着くナショナリズムというのは、いわば末期症状でしょう。血以外にひとびとを結びつける紐帯がなくなってしまった現状で、何とか共同体性を擬制しようという。現在の日本がそういう状態に近づいているとは僕には思えない。(東浩紀・北田暁大:『東京から考える―格差・郊外・ナショナリズム』:p260)

私は北田の意見には賛成だし、例えばネット上の風潮であるプチナショナリズムが、血のナショナリズムに結びつくとも考えていない。

結婚

緩和及第。結婚である。

……。

小林のこの話は、結婚のはなしじゃないよね、と思う。

PS.建設業とナショナリズム

私は先に、『私のIT化戦略は、テリトリーという束縛に縛られた地場の建設業のために考えられている。しかしその束縛は土地(テリトリー)だけではなく血とのハイブリッドとしての世代的再生産である。(この世代的再生産のつくる共同体は社会と個人の関係だけでは理解ができない)。』と書いた。

それは2代目3代目という若い社長との付き合いの中で、何故彼らが経済合理的に行動しないのか(逆風の中で何故あえて建設業でありつづけているのか)、のひとつの私なりの答えである――それが地と血の束縛。 

けれども、それが「ナショナリズム」に結びついていないことも実感している――それは彼らが拠り所にしている共同体性がせいぜい「家庭」止まりだからだ。

そこにテリトリー性(地の束縛)が上書きされていることで、それは(血縁を超えた)イエの原理に擬似的に似てくる。

私はそのシステムをかなり気に入ってはいるし、それをベースに「種の論理」を発展的に展開する、という戦略をとっている。

しかしそれはまだ、「種の論理」でいえば、「個」の存在さえない、前「中景」的、前「種」的なものであることで(進化しない「種」であることで)、「類」を生み出してもいない(はっきりいえば、業界的なまとまりは悪い)ことで、この時代の「種」的なものへの淘汰圧力をまともに受けている、と(私は)思う。