「ゴーマニズム宣言EXTRA パトリなきナショナリズム」:小林よしのり。

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午前5時起床。浅草は雨。

ゴーマニズム宣言EXTRA パトリなきナショナリズム

ゴーマニズム宣言EXTRA パトリなきナショナリズム

小林よしのり(著)
2007年6月18日
小学館
1300円+税

小林よしのりは、私の中では「おぼっちゃまくん」の作者であることでとまっていて、反米保守の立場で、言論の場で活躍していることは間接的には知ってはいたけれども、私の興味の範疇外の人でしかなかった。

パトリ

そんな私が小林の『ゴーマニズム宣言EXTRA パトリなきナショナリズム』を購入したのは、そこに「パトリ」という、私のよく使う語彙をみつけたからであり、それ以上でもそれ以下でもない。

なのでこの本も、「パトリ」について書かれたところしか読んでいないので、(私の)小林理解には誤解があるかもしれないことをあらかじめお断りしておく。

とはいえ、小林の(郷土愛としての)パトリの理解は、私とたいして変わっているわけでもないし、パトリを否定するものとしてのネオリベ批判も同じようなものであるので、違和感は少ない。

小林は、この本の表題でもある「パトリなきナショナリズム」をネイション(国家)を考える者として否定するのだが、(小林の戦略であれば)それは当然であるだろうな、と思う。

種の論理

ただ私にとっての「パトリ」とは、郷土愛に限定的されたものではなく、田邉元のいう「種の論理」の種的基体の別名のことである。

下の図でいえば、第4象限に「種」としての「パトリ」は生まれ、それは、第2象限を視野にいれることで「ローカル」全体に存在し、(「種」における「個」は)第3象限を経由することで「世界」につながる。

パトリとは第4象限のことである。

それは私のことばでは「個は種のミームの中で育ち、また種は個の変化によるミームの変化を内包している」となる。

種と個

つまり「種」としての「パトリ」は静的なものではなく、矛盾としての「個」を孕む(ことを強調している)――その「個」における「種」の否定即肯定という運動を原動力に「種」は変化し続ける。(静的であれば「種」は進化的に淘汰されるだけだろう)。

種はカオスであり、多様体であり、非合理な「分有の論理」の支配する力場であり、「野生の思考」であり、共同体の知恵の集合体であり、陰翳であり、テリトリーであり、純粋な差異なのだ。現実の世界を構成するのも、無意識の領域にうごめいているのも、内包も、外延も、いっさいの貨幣を水路に流し込んでいこうとする資本主義によって。「種」が多様体のなりたちをしていること自体が、立ちふさがる障害であったのだ。(中沢新一:『フィロソフィア・ヤポニカ』:p160-161)

つまり「種」は、『多様体であり、非合理な「分有の論理』の支配する力場である」ことで、あらゆる差別の基体となる。(資本によるフラット化さえ否定してしまう)。

小林は本書の中で、『郷土こそが差別の温床ではないか!』『わしは郷土が嫌いである。』(p155)と書いているが、正直な発言だし、「種」のもつ、構造的な、無意識の束縛を言い表しているフレーズだと思う。

わたしたち(「個」)は「種」からしか生まれ得ないことで不自由であり、「種」に対する否定性を媒介することで「個」はなりたつ。

しかしその束縛から逃れるのは、(今は)意外と簡単で、土地(テリトリー)であれば、引越しすればよい。w

わしは東京が好きだ。時々福岡に帰るとほっとするが、東京に帰ってきた時もほっとする。(小林:p155)

小林にとっては、福岡も東京もパトリ化しているのだろう。しかしその二つは性格が違う、と(私は)思う。東京は仕事(土地)という種的基底(小林を漫画家として育て育んできたところ)だが、福岡は血という脱構築できない生殖的(生物学的)な束縛をもつ「種」だろう。

脱線したついでに書くが、私のIT化戦略は、テリトリーという束縛に縛られた地場の建設業のために考えられている。しかしその束縛は土地(テリトリー)だけではなく血とのハイブリッドとしての世代的再生産である。(この世代的再生産のつくる共同体は社会と個人の関係だけでは理解ができない――なので「種の論理」を持ち出すしかなかったのだが)。

閑話休題。しかしそのことでこそ――「種」のもつ構造的な無意識の束縛に縛られながら、それを否定し得る自主自由な「個」として運動すること――「種」と「個」は変化し得るし「種」と「個」はその独自性を保てる、というのが私の戦略となっている。

とりあえずはこの巨大な動きの中で流れて、それ以上のスピードで流れていくことで独自性を保っていくことが一つの方法になるかもしれない。(川俣正:『アートレス―マイノリティとしての現代美術』:p45)

類としての国家

またそのような自主自由な「個」によって「種」に孕む不平等が否定されていくとき、「種」は自身で「類」(国)に飛躍していくことが可能となる、と(私は)考えていることで――「類」の仕事として国の行う政治経済政策を考えている。(「種」を郷土とし、個人(個)と国家(類)の関係を考えた場合。建設業のIT化ではまず、「個」を社員、「種」を企業。「類」を協会と置き換えている)。

このときはじめて「国家に止揚せられた種は、個の平等化を媒介としてそれ自身も平等化せられ、種の異例を含んで一様なる人類の特殊即普遍的なる統一を形造る」ようになるのだ。このような考え方によって、「種」への傾きをもった自然存在論と、近代の自由自律的な人格による存在論との矛盾が、乗る超えられるようになる。そうなると国民となった「個」に対しては、そのような国家は他治自治(自律的であると同時に他を配慮した束縛性を示すもの)の性格をあきらかにし、また地方自治はそのまま他治被治としての媒介性を発揮できるようになる。それが、「類」としての本質をもつ国家というものに他ならない、と田邉元は語るのである。(中沢新一:『フィロソフィア・ヤポニカ』:p159)

なので、パトリを種的基体として考えることで、(私は)国家の「種」化を否定的に考えているのだが、それには「個」の自主自由を必要とする――その意味で私は(たぶん)、小林が批判の対象としている姜尚中の考え方に近いのかもしれない。(姜尚中については不勉強なので「かもしれない」としか書けないけれども……)。 

種化

類種個小林の嫌いな、グローバリズムとしてのネオリベは、アメリカ種であって、普遍的な「類」などではない。小林の戦略は、そのアメリカ種に対して、日本という「類」の「種」化(民俗化)で対抗しよう、というものだろう。

なので郷土愛としてのパトリの同心円上に愛国心(ナショナリズム)を形成しようとする――「パトリあるナショナリズム」――のだろうが、小林が、『郷土こそが差別の温床ではないか!』『わしは郷土が嫌いである。』というとき、なにか消化不良のようなものを(私は)感じてしまった。(p154-155あたり)。

それは小林の戦略を考えれば、今の生活と血の束縛にある戸惑い、といってもよいのかもしれないが、今という時代に、国家を「種」とする戦略は、じつはアメリカ種への同調を加速するものでしかない、ということに気付いている、ということだろう。

小林はどこかで、「類、種、個」の関係を再構築することになるのだろうか。たぶんそれはないのだろうな、と思う。そんなことはもう彼の中ではどうでもよいのだろうと思う。(本人が書いているように)創作に向かうのだろうな、と思うし、そうであれば私もまた、何十年ぶりかで小林よしのりのギャグ漫画を楽しめるかもしれない。

PS.本書に収められている『国家にとって「結婚」とは何なのか?』も興味深い。これについては別に書く……かもしれない。w

コメント(2)

はじめまして。
↓で小林よしのりさんが、生でゴーマニズム宣言してますよ。
http://www.shogakukan.co.jp/heiseijohi/

>とおりすがりさん

コメント&情報ありがとうございます。
拝見させていただきます。