午前7時30分起床。浅草はくもり。昨日からめっきり涼しくなった。私は鼻風邪。
自民党総裁選は、福田康夫氏の逃げ切り。
福田氏330票、麻生氏197票という結果は、「自民党のバランス感覚」とでも言うのだろうか、小泉さん、安倍さんと約6年間、雪崩型、官邸主導、「強いリーダーシップ」と付き合わされた身には、(このバランス感覚は)なにか懐かしい、と同時に、しどろもどろしてしまいそうだ。(笑)
今回の総裁選の結果は予想通りであるが、それは派閥がうまく機能しなかった、という面も持っていて、単純な派閥政治の復活や古い自民党の復活も意味していない(そういう思惑はあるにしてもだ)。
それはたぶん「種の論理」的には、自民党によい方向に働くだろう、と思う。
まあ、自民党内部での主導権争いはあるだろうし、個々の議員のエゴも表出してくるだろうが(人事としてだね)、それはどこかで穏やかなものとならざるを得ないだろう。
小泉さんと安倍さんは、世論を「つくだす」リーダーだった。(安倍さんはマーケティング的にそれに失敗したのだけれども)。
それは毎日肉ばっかり食べているようなもので、世論は、それにも少々食あたり気味だった。
もうすこし癒し系の和食も食べたくなるのが人情というもので、ようやく出された、福田さんの日本の朝食的な穏やかさに触手が動いた、ということだろう。
福田さんは世論に「あわせる」タイプだろう。
主義主張がなく、世論に敏感な(?)自民党は、和食的な福田さんを担ぎ出すことで、あえて「バランス感覚」を取り戻そうとしているように思える。
福田さんは「バランス感覚の象徴」、現時点での「止揚」なのだと思う。
それは個々の議員や派閥の思惑とも違っているかもしれないが、「無意識レベル」というか、ユングの「集合的無意識」というか、まあ、そういうレベルで、そうなってしまうのでございますよ、というものだ。
そしてそれは、決して過去のものと同じではない、と。
ここで弁証法を持ち出すのもつまらないのだが、世の中はどこかで「止揚」する、ということだろう。まあそれを語ること自体の欠点も沢山有るのだけれど、「あえて」そう言うしかない結果だと思う。
止揚(しよう:アウフヘーベン=aufhebenの訳)は、ドイツの哲学者であるヘーゲルが弁証法の中で提唱した概念。揚棄(ようき)ともいう。
ドイツ語のaufhebenには、廃棄する・否定するという意味と保存する・高めるという二様の意味があり、ヘーゲルはこの言葉を用いて、弁証法的発展を説明した。つまり、古いものが否定されて新しいものが現れる際、古いものが全面的に捨て去られるのでなく、古いものが持っている内容のうち、積極的な要素が新しく高い段階として保持される。このように、弁証法では、否定を発展の契機としてとらえており、のちに弁証法的唯物論が登場すると、「否定の否定の法則」あるいは「らせん的発展」として、自然や社会、思考の発展の過程で広く作用していると唱えられるようになった。
国語辞典などでは、違った考え方を持ち寄って議論を行い、そこからそれまでの考え方とは異なる新しい考え方を統合させてゆくこと、という説明がなされることがある。