午前7時20分起床。浅草はくもり。

サウスバウンド(下)

サウスバウンド 下 (3) (角川文庫 お 56-2)

奥田英朗(著)
角川文庫
2007年8月31日
514円+税




〈大衆文学/純文学〉

最近は大衆文学ばかり読んでいる。専門書が読めない状況が1ヶ月程続いている。

ボロメオの結び目脳みそが象徴ではなく想像界を求めているのだろうな、と思う。

「大衆文学」と言うのもなにか時代がかった言い方だが、これは私の中では忘れられない言葉なのだ。

中学生の頃、授業の中で、今読んでいる本を紹介する時間があった。

当時私は(なぜか)家にあった山岡荘八の徳川家康を読んでいたりしたので、「徳川家康を読んでいます」と言ったら、担当教師(たぶん国語の先生か)が、「ああ大衆文学ね」と何処か蔑んだ言い方をしたわけだ。

私はその頃、純文学と大衆文学の区別などつくわけもなく、「大衆文学って、文学には区別があるのですか」と先生にたずねた。

そしたら、「純文学というのがある」と教えられたわけだ。

その違いは何ですか、という不躾な餓鬼の質問に、その先生はこう答えた。

「大衆文学は、説明が多い分、字数も多いのだよ」、と。

例えば純文学が50頁で表現するするところを、大衆文学は2割増の60頁かけて説明(表現ではない)するのだ、と。

それが正しい区分の仕方なのかどうかは(私は)知らない。

しかしその時から、私の中ではその区分がまかり通っているのである。

もしそれが間違っているとしたら、中学のときのその先生の故(せい)であるので、そっちに文句を言ってくれ、と。(たぶん既に亡くなっているはずだが)。

そして私の理解は、50枚なら理解は難しいのだろし、2割増なら読むのが面倒なのだろうし、どっちにしろ文学って大変なのね、なのであって、私は好き好んで文学(小説)を読まない人になったわけだ。

サウスバウンド(下)

そんな私が最近一番面白く読んだ「大衆文学」が奥田英朗の『サウスバウンド(下)』なのである。

これは文庫本であり、上下巻を(移動の時間の暇つぶしの為に)岩見沢駅のキヨスクで買った。

はっきり言って上巻(東京編)は期待はずれであった。

大衆文学の2割増が冗長に思えた。それはまるで、喋りすぎ(説明過多)の落語のようにだ。

しかし上巻に比べれば半分程の厚さしかない下巻(西表島編)になったら、途端に奥田英朗は蘇生した。

奥田作品は、例えば、精神科医伊良部一郎のような、現実にいそうでいない特異なキャラクターが、現実にいたらこうなる、というありそうでありえない、〈非日常性/日常性〉すれすれの想像界こそが脳みそに快感を与えている(のだと思う)。

不思議な人物がいないことには奥田英朗は始まらない。

今回の特異キャラは元過激派の父だ。

それは精神科医がありふれた存在のように、ありふれた存在だろう。(団塊の世代の皆さんもそうだろうし、私の世代もそういう奴は多かったりする)。

しかし小説中の「一郎」父さんのようなキャラは、精神科医の伊良部一郎同様、現実の世界にはいないのである。

しかしいないものが、沖縄に居たらこうなる、と思った途端、「一郎」は妙なリアリティを持ち、スピード感あふれて動き出す。

ここでは説教くさいものはどうでもよいのである。(家族とか……)

この妙なリアリティとスピード感、それが楽しめれば脳みそはうれしい。それはよく出来た落語のようにだ――イリュージョン、若しくは緊張と緩和。

想像界でここまで楽しめれば、勿論、映画は見ない。(笑)