桃知商店よりのお知らせ

「みんくす」で静岡焼きを食べる+生桜エビ天。(浅草3丁目:猿之助横丁)

静岡焼き作成中
静岡焼き作成中


午前8時起床。浅草は曇り。今日も寒い一日のようだ。昨晩は気の置けない方々とちょっとした酒宴をやらかし二日酔い気味で頭がいたい。

そのはじまりは、浅草3丁目の千束通りをはさんで西側の猿之助横丁にある「みんくす」であった。かつては違う名前のお好み焼き屋さんだはずで、3丁目に住んでいた頃に何度かおじゃましていたけれど、「みんくす」という名前になってからは初めてである。

そこは静岡パトリ系のメニューが多く、ちょっとだけ異次元な空間となっていた。例えば静岡焼きなるものがあって、それは広島焼きからヤキソバとイカフライを引き算し、桜エビと肉おぼろ(牛スジかな?)を足し算したハイブリッドである。こういうブリコラージュが機能するからお好み焼き屋は楽しいを表徴してる。

静岡焼き 作成前
静岡焼き 作成前

静岡焼き 出来上がり
静岡焼き 出来上がり

たぶんこれはこのお店オリジナルなのだと思うが、ベタなネーミングも楽しければつくる過程も楽しい(今回は初めてなのでマスターにつくってもらったのだけれどもね)。それでこれ、非常にうまいのであって、あたしのお気に入りに自然登録されたわけだ。そして生桜エビ天。これは浅草無双だわ。

生桜エビ天 作成中
生桜エビ天 作成中

あたしは静岡にはさほど縁のない人生を送ってきたけれども、いつだったか静岡の方から生桜エビをいただいたことがあて(蕨に住んでいた頃だよな)、それをかき揚げにして食べたときのうまさは強烈な味覚の記憶となって残っていたりする。その後生桜エビには恋焦がれながらも磯のあわびの片思いが続いていたのだ。つまり生桜エビというのは、あたしの中ではすこぶるつきの幻のうまいものになってしまったのだ(〈対象a〉という)。しかし

なぜなら〈対象a〉とは、まさにその歪曲の、つまり、欲望によっていわゆる「客観的現実」の中へと導入された混乱と錯綜の剰余の、具現化・物質化以上の何物でもないのである。〈対象a〉は客観的には無である。だがそれは、ある角度から見ると「何か」の形をとってあらわれる。(スラヴォイ・ジジェク:『斜めから見る』:p35)

は機能してしまっていて、それが私の欲望のなんの具現化・物質化なのかは知らないのだけれども、ある角度から見ると「生桜エビ」の形をとってあらわれる〈対象a〉を求めて、あたしゃ「みんくす」に行かざるを得ないのだろうね。

みんくす
台東区浅草3丁目40-1
03-5603-5344
みんくす
 [浅草グルメマップ]

Comments [2]

No.1

文豪@酒場 のバッキー・イノウエ氏の著書「行きがかりじょう」にお好み焼き屋に関する著述があります。

なぜお好み焼き屋には笑いが溢れるのか、イノウエ氏曰く「ざわめき加減や鉄板の上で湯気を出している野菜やすじ肉、揺れるかつおに手の動き、フランクでラフな気分と食欲をそそる焦げたソースの匂いなど、笑うTPOが全部揃っているのかも知れない」

確かに知らないもの同士、付き合いの浅いカップルでも「作業」や「観察」の機会が適度にあり会話や参加者間の親密さのなかに生じる「真空」をうまく埋めてくれるので、結果として「和気あいあい」ということになるんでしょうね。

コミュニケーションにおいて、池の向こうに渡っていける「飛び石」のようなものがお好み焼き屋には備わっているのでしょうか。

No.2

>鉄蔵さん
昨晩はありがとうございました。

バッキーさんのお好み焼きテクストはいいとこついてますよね。
http://www.140b.jp/gekijo/2007/12/3535.html

私はそれを「キャンプファイヤー」効果と呼んでいました。

つまりお好み焼き屋は危険なのである。それは鉄板焼きや、火を囲む料理全般に言えることだろう。/逆説的だが、人間腹を割って酒を酌み交わすときには、焼肉とか鍋とか、火を囲む料理に限るのだ。(商談とか女を口説くのもこれに限る?)/それを私は「キャンプファイヤー効果」と勝手に名付けているのだが、それは人間っていうものは遺伝子的に、火を囲む料理のときは、楽しくやらなくちゃいけない、って知っているからだろうな、と思う。まあ、興ざめな話だけれどもね。(笑)
http://www.momoti.com/blog2/2007/12/140b_3535.php

こんどはプデチゲで遊びましょう。

このページの上部へ

プロフィール

桃知利男のプロフィール

サイト内検索

Powered by Movable Type 5.2.13