江弘毅への返信に、黒石神社の蘇民祭(岩手県奥州市)のポスターとAA(アスキー・アート)をつかってみた。
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彡彡ミミ
「全裸は公然猥褻に該当し警察として措置する」
これがなにかは、江弘毅への返信をちゃんと読めばなんだかわかる。(たぶん?)
[世間がいう「不適切な表現」とは、そもそも由緒正しいイディオムです。]
午前7時10分起床。浅草は晴れ。
今回の返信は、少々へんてこりんな仕上がりだと思う。
- ポスター
- 不適切な表現
- 相手を敵とみなし邪悪な存在として否定することで、それに対立する自分たちを善とみなす。
- 「われわれ」のルール
- 失われる自由
- 「みんな」と「ワシら」と「われわれ」と。
- 暦と地図
- 欲望/欲動、自己/自我
- キアスム
- あたしがあらわにされる問い
という小見出しがついたテクストは、前後との関係性を最小限にしようとして書かれていて、できればそれぞれが独立したテクストで読めるようにした(つもり)。つまり断章である。 例えば
現に私自身の教壇における知的威信の80%くらいは私の日本語話者としての語彙の豊富さと落語に学んだ滑舌のよさによって担保されている。同一のコンテンツであっても、私が仮に外国人であり、学習した日本語で論じた場合には、どれほど文法的に正確な日本語で講じても、学生たちはそれほどには聞き入ってはくれぬであろう。
という内田先生からの引用は、これだけでひとつの断章となっていて、今回はそのぶつ切り感を強調したく、引用を多用してみた。
それは「文」になることの拒否のようなもので、「文」とはあたしにはジャスコであり、それを拒否しながらなにをしようとしたかというと、「街」の商店街のようなテクストにしようとした(つもり)。
若しくは、60年代、70年代のロックのアルバムのように、断章はそれぞれ独立しながら、全体として、なんらかのテクストになれるのか、というようなもの。
ブログはひとつのエントリーが断章であり、ひどいのは、ほとんどが引用だったりするわけだけれども、それが全体としてテクストになれば読めるものとなる。
つまりは、ブログという全体を、ひとつのエントリーという「個」でやってしまおう、という無謀な試みと云爾。