GoogleのHappy Valentine's Day 2007.
2007年2月14日


2006年2月にインターネットで情報提供を手掛けるアイブリッジ社が実施したバレンタインデーに関する独身男女(20代~30代)に対するアンケートによれば、回答した300人のうち「チョコレート受け渡しの習慣なんかなくなればいい」という回答がOLで70%、同じく男性社員は50%であった。ただし、OLの反対意見では、女性の側から贈る習慣に反対しているのであって、男性側から贈られるのであれば賛成とする「ご都合主義的意見」も多かったとされる。[バレンタインデー - Wikipedia]

午前6時45分起床。浅草は晴れ。バレンタインデーである。あたしも家人からチョコレートをもらい、朝からそれを食べていたりする。

普遍経済学日本のバレンタインデーの習慣は、そのはじまりはなんであろうが、既に日本の年中行事であり、じつに日本的な習慣である。

あたしは「贈与」を説明するときには、この習慣を便利に使わせていただいている。(こんなにわかりやすい「贈与」も他にない)。

なにしろ今日チョコレートをもらったら最後、それが義理チョコであろうが、友チョコであろうが、たんなる慣性であろうが、1ヵ月後には「お返し」をしなくてはならない、という義務・しばりを負うのである。

それは法律ではない、法令遵守でもない、ましてやコンプライアンスでもない。

贈与は「貸し借り」というしばりである。

これをべらぼうなものにしてしまって、いまや絶滅危惧種に追い込んだのが「交換」なのである。交換のしたたかさは、あたしたちを「みんな」に成り下げてしまう。贈与でできあがっていたはずの建設業にも、「貸し借り」はなくなってしまったことで、公共事業という産業も「みんな」なのである。(このあたりはパチンコにより詳しい。江弘毅のこのテクストもいい)。

贈与の原理

  1. 贈り物はモノではない。モノを媒介にして、人と人との間を人格的ななにかが移動しているようである。
  2. 相互信頼の気持ちを表現するかのように、お返しは適当な間隔をおいておこなわれなければならない。
  3. モノを媒介にして、不確定で決定不能な価値が動いている。そこに交換価値の思考が入り込んでくるのを、デリケートに排除することによって、贈与ははじめて可能になる。価値をつけられないもの(神仏からいただいたもの、めったに行けない外国のおみやげなどは最高である)、あまりに独特すぎて他と比較でぎないもの(自分の母親が身につけていた指輪を、恋人に贈る場合)などが、贈り物としては最高のジャンルに属する。

交換の原理

  1. 商品はモノである。つまり、そこにはそれをつくった人や前に所有していた人の人格や憾情などは、含まれていないのが原則である。
  2. ほぼ同じ価値をもつとみなされるモノ同士が、交換される。商品の売り手は、自分が相手に手渡したモノの価値を承知していて、それを買った人から相当な価値がこちらに戻ってくることを、当然のこととしている。
  3. モノの価値は確定的であろうとつとめている。その価値は計算可能なものに設定されているのでなけれぽならない。

Wikipediaに載っていた意識調査をみると、なんだか義理チョコには「うざさ」が漂っている。

2007年2月同社(マクロミル社)による20歳以上39歳以下の会社員女性515名から回答を得た「バレンタインデーに関する調査」 では「会社での義理チョコのやりとり、あった方がいい」が26%、「ない方がいい」が74%とネガティブなイメージがあり、調査年齢層の年齢が上がるほど否定的傾向が顕著に強くなる調査結果となった[2]。[バレンタインデー - Wikipedia]

ああ、そうなのか、とあたしゃ悲しむ。

けれど、「贈与」がなければ、「交換」だけでは、あたしは「私」も「われわれ」にもなれないのである。交換のさらっとした感覚ではなく、「贈与」のそれこそ「うざさ」が「われわれ」のそして「私」の素なのである。

チョコレートを配れよ乙女なのだ。