午前7時30分起床。浅草はくもり。昨日、京都 店特撰の原稿が届き、さっそく140Bのサイトへとアップする。
[140B劇場-京都 店特撰|その12 ビールより行儀が良く、ワインより頭の悪いのが熱燗か。だとしたら隣で飲む奴は?「居酒屋たつみ」]
誰よりも早くバッキー井上さんのテクストが読めるのは役得であって、Web用に改行の調整とタグをつけながら、届いた原稿を読む。
そして、あぁ、これは浅草のはなしでもあるな、と思う。(もちろん井上さんのは京都の店のはなしだが)。
この書き出しがいい。
ウイスキーより熱燗の方が侍だ。ワインより熱燗の方が温かい。
あたしはぬる燗派だけれども、酒は燗酒がいい。そして燗酒は、井上さんのいうように侍なのである。
例えば秋山小兵衛(剣客商売)が、人を切りにいくときでも、その前にちょっと酒を飲んだりする。もちろん燗酒である。鬼平(鬼平犯科帳の長谷川平蔵)が、仕事中にそばを手繰りに蕎麦屋に入っても、「それと、酒をな」なのである。もちろんこの酒は基本的には燗酒である。
あたしも、午後から講演などというとき、昼から飲むときがある。それは身体がいまいちシャンとしないときで、そういう時は燗酒を一合である。それで20分も昼寝をすれば、午後からはまた、別の一日が始まったかのようになる。
たぶん日本人の習慣として、栄養ドリンクのように(昼間から)酒を飲む、というのはあったのだと思う。つまり酔うために飲むのではなく、力づけとして飲む。
それはいってみれば、凛とした飲み方であり、自分で時間を決められる人々の飲み方である。つまりそれができる人々とは広義の自営業者でしかない。
そんな人々のために、昼間から酒を出す店はずっと昔からあったのだと思うし、江戸の蕎麦屋文化(腹を満たすためではなく、昼下がりにに、ちょっと一杯、というときに使うという習慣)もできあがってきたのだと思う。かつてはそれを都会的と呼んだはずなのに、いまや都会的の意味さえ違ってきている。
だからパブリックな居酒屋は必然的に営業時間も長くなる(そういう店はたいてい早い時間からやっている)。また、昼から営業することができる居酒屋は並大抵ではない。その街に優れた素質を持ちながらそれを維持する続けることの出来る酒飲みが多くなければ成り立たないし、その素質を持った酒飲みの人達の、店とその瞬間の空気を読む選球眼は非常に鋭いのでちょこざいなサービスメニューやトピックな内装などでは見向きもされないはずだ。
「昼間から飲んでいる」。「その街に優れた素質を持ちながらそれを維持する続けることの出来る酒飲み」。それは自分の時間を自分で決められる人々でしかない。
自分の時間を自分で決められる人々を広義の自営業者とあたしは呼ぶけれども、そういう人々の住む街だけが、「昼から営業することができる居酒屋」をもつのである。
それはいってみれば公共財なのであって、つまりはパブリック public である。パブリック public の概念をもつことは街的文化(センス)である。そういう文化のない街には「昼から営業することができる居酒屋」はない。
江戸の昔は(広義)の自営業者ばかりだった。昭和の時代もまだ自営業者が多かった。しかしバブルがはじけたあたりから、自営業者は生き辛くなり、昼間から飲める質のよい店も減ってしまった。(と同時に喫茶店も減った)。
ビジネスマンが働く街や、ビジネスマンが住む街ばかりになれば、昼から飲める質のいい店はなくなってしまう。ユンケルか、24時間働けますか、でも飲んでればよいのである。
ビジネスマンが昼間から酒を飲めないのは、自分の時間を自分で管理できないからであり、そんな街に、昼間から飲めるいい店がないのは当然のことでしかない。
さすれば、パブリック publicのセンスはなくなり、街のもつ自由の貧困は深まり、街的文化の貧困が始まる。それを江弘毅は「いなかもの」と呼んだのだ。
そして運転をする人々は、時間を自分で決められるとしても、昼間から酒を飲む、という自由を失っている。だから郊外化した、ファストフード化した街にも、昼間から飲める店がないのである。そこは車の街でしかなく、そこで守るべきは交通法規という「われわれ」の外にある掟であって、街的なパブリックのセンスなんぞ、生まれるはずもないのである。