みやけんblog
みやけん blog


午前6時20分起床。浅草は晴れ。今日は、葉桜の頃のような天候になるとのことなので、自転車をこいで税務署にでもいってこようかと思う。

みやけん blog を読めば、岩見沢生活空間創造システム(岩見沢建設協会)が紹介されている。

このHPを見ると、こんな事がしたいのに出来ない自分を再認識し沈んでしまいますが、いつの日か当協会にもこんな事を実現する方が現れるのではないでしょうか…。/岩見沢建協も桃知先生の指導を受けているのですが、同じ指導を受けても団体の全体としての熱の入れようで、内容に差が出てきているのでしょうが…(私としては、やりたくても出来ない自分に腹立たしささえ感じてしまします。)

その腹立たしさがよろしい。それをテクストにすることで、そいつはより鮮明に自分の腹の中に圧縮される。その圧縮こそが〈欲望〉なのだ。

協会というのは、利己的な己をしばってくれる(外部にある)利他性なのである。つまり「街的」と同じ原理で動く、バロックの館の1階部分であり、「」である。

それは今までは「統治の倫理」で動いてきたかもしれないが、インターネットが普通にある時代に、自らを世間との関係におかざるを得ないのであれば、「市場の倫理」で動いた方がESS的に有利であることは昨日書いた。(それは個として勝手にふるまうよりもだ)。

その具体例が岩見沢のサイトだとは断言しない。けれど、岩見沢はそれに向かって動いているのはたしかだろう。

つまり問題は、倫理の自覚的な切り替えと行動意欲(欲望)にある。けれどあたしらは、デジタルじゃないのだから、プラス/マイナスを切り替えるようなわけにはいかない。

ただ、ある方向(今回は「市場の倫理だね)に、協会員が具体的ななにか(「街的」なら祭り、ここでは「ブログ化」)に携わりながら向かうこと(たぶんそれは絶対に到達はしないだろうが)、そのプロセスこそが「われわれ」を形成する。

そしてそのプロセスこそが「協会」を新たな存在意義へと導く、ことで会員(「」)の存在意義を際立たせる、というのがあたしの協会ベースのIT化理論でしかない。

だから「欲望をあきらめてはならない」(@ジャック・ラカン)なのだと(あたしは)思う。

来年度のことは何も決まってはいないけれども、ひとつひとつやっていきましょうや。