ララテラス 南千住

祭りとは言っても、日中は暇なので(酒ばかり飲んでいるわけにもいかない)、昨日は南千住へ出かけた。うちのかみさんはジャスコ的なものへの憧れがあって(まあ、あたしがこんなものだからなのだが)、南千住のララテラスへ行ってみたいというのだ。そんなのは自転車に乗って一人でもいける距離なのだが、かみさんは方向音痴なのである。

特に、うち(浅草4丁目)から吉原、日本堤を越え、三ノ輪、南千住方面に向かうのは、ほぼ迷宮のなのであって(それは吉原の迷宮の構造のせいである、というのがあたしの持論なのだが)、では、ということであたしも一緒に15分ほど自転車をこいだ(息子は祭りに出かけたまま行方不明)。


ララテラスは、南千住駅の北西側を再開発した中規模商業施設で、名の通ったテナントが沢山入っている。近所には高層のマンションもあり、大勢の人出で賑わっていた。

あたしらは鯛焼きを調達し食べながら歩いてみたのだが、なんだか落ち着かないのである。どこかで昼餉にしようとしても、どこもが落ち着かない構えなである。店を覗けば子供の王国化していてさらに落ち着かないのである。これはあたしの感想ではなく、(ジャスコ的に憧れていた)かみさんの感想なのだ。曰く「すっかり浅草に毒されたみたい」なのだと。

それでも、せっかく来たのだから、ということで「リブレ京成」なるスーパーマーケットに入ってみた。流石に浅草のスーパーとは違って規模も大きいし品揃えも豊富である(そしてなによりもきれいである)。しかし、かみさん曰く「高い!」のだ。そして「面白くない!」のだと。あたしも「ダイマス」に慣れたせいもあってか、面白くないのである。なので5分ももたずに店を出た。げに恐ろしきは「浅草的」なのだ。

ジョイフル三ノ輪商店街

すっかり落胆したかみさんに、「じゃ、とっておきのところへ連れっていってあげるわ」と向かったのが、ジョイフル三ノ輪商店街なのだ。そのやる気のないウェブサイトは、(あたし的には)無償で作り直してあげたいぐらいなのだが、それはさておき、都電荒川線の終点駅である三ノ輪橋にあるこの商店街の元気はいいのである。

ジョイフル三ノ輪商店街
ジョイフル三ノ輪商店街

この通りを歩いているのは、ほとんどが爺と婆である。それはララテラスのニューファミリーというかガキの王国性とは対照的であるのだが、かみさんは「やっぱし、こっちの方が落ち着くわ」なのである。

とりふじのコロッケ早速「とりふじ」でコロッケを買って食べながら商店街を歩く。揚げ立てが1個80円。頼めばソースもかけてくれる。がぶりとやれば、ああ、うまいなのだな。

この商店街は、アーケードになっていて通路は狭い。その閉塞性が(浅草寺の仲見世的な)「子宮的構造」をつくりだしているわけで、直進性を見事に邪魔している。

パサージュ

それは下町の「パサージュ」とでもいえるものだ。ただそれは、ベンヤミンのいう、《これは百貨店の前身》であり《パサージュは高級品が売られるセンターであった》のではない。この三ノ輪のパサージュに高級品はない。

産業による贅沢の生んだ新しい発明であるこれらのパサージュは、いくつもの建物をぬってできている通路であり、ガラスの屋根に覆われ、壁には大理石がはめられている。建物の所有者たちが、このような大冒険をやってみようと協同したのだ。光を天井から受けているこうした通路の両側には華麗な店がいくつも並んでおり、このようなパサージュは一つの都市、いやそれどころか縮図化された一つの世界とさえなっている。(ヴァルター・ベンヤミン:『パサージュ論 (岩波現代文庫)』:p6)

ジョイフル三ノ輪商店街つまりここには、「贅沢」もなければ「大理石」もないのである。

ただすべての商品は、近所の人たちの生活に密着していることで、生活者のための「商品の大いなる歌が色とりどりの詩句を歌っている」(@バルザック)のである。

それは「リブレ京成」で売られている均質化された商品の対極にある。パン屋、餃子屋、総菜屋、魚屋、肉屋、蕎麦屋に喫茶店 and etc.

それらの店々が作り出す均質化への反抗は、たまらない快感を余所からの旅行者(あたしのことである)に与え、魅了し続ける。