会津若松市は5月28日、庁内の約850台のPCで利用するオフィスソフトウェアを「Microsoft Office」から、オープンソースソフトウェアの「OpenOffice.org」(以下、OpenOffice)に切り替えると発表した。同時に庁内で利用する標準の文書形式としてODF(Open Document Format)を採用する。会津若松市の総務部情報政策課は「ユーザーインターフェイスや文書フォーマットが大きく変わったMicrosoft Office 2007の登場が、OpenOfficeへの切り替えのポイントだった」と話している。(会津若松市がOpenOfficeの全庁導入を決断、850台が対象 - @IT)


OpenOffice採用の利点

Openoffice.org自治体によるOpenOfficeの採用は今後益々加速するだろう。プロプライエタリな文書フォーマットに依存すべきでない官公庁や自治体がそれを採用するのは(あたし的には)当然だろうと思うのだが、会津若松市はその利点として以下を挙げている。

  • 経費削減
    Microsoft Officeから無償のOpenOfficeへの切り替えによる経費削減額は5年で約1500万円
  • データの互換性
    これまで何年も前にPCで作成した文書を最新のオフィスソフトで編集しようとしても取り扱いができなくなっているケースがあったが、PCで文書を作成する際に国際標準の文書(ODF)を採用することで、このような事態を避けることができる。
  • 市民負担の軽減
    市がWebサイトで申請書などの文書を配布しても、市民が編集しようとすると「場合によっては有料のソフトを購入してもらう必要があった」として、ODFを採用することで「有料ソフトを使わずに編集できるようになる

その根底にあるもの

しかしその根底にあるのは、

  • 自治体の財政状態の悪化
  • 無償で使える(つまりWeb2.0の文脈に忠実な無料経済)サービスへの Radical Trust(信頼)の確立

だろう。「自治体の財政状態の悪化」は、背に腹は代えられないだけのことで面白くもなんともないので、今回は「無償で使える(つまりWeb2.0の文脈に忠実な)サービスへの Radical Trust(信頼)の確立」について書く。

普遍経済学「ただより高い物はない」が機能していた時代

日本では「ただより高い物はない」という言葉が長い間機能していた。それは「贈与」が強く働く社会を象徴している言葉だ。

つまり、タダで何かもらえば、その「お返し」は必ずしなくてはならない、という「贈与の原理」が強く働けば(働くのだから)、タダでもらえば(とくに贈与側に下心があるなら)、結局は高くつくこともあるから気をつけなさいよ、という教えである。

贈与の原理

  1. 贈り物はモノではない。モノを媒介にして、人と人との間を人格的ななにかが移動しているようである。
  2. 相互信頼の気持ちを表現するかのように、お返しは適当な間隔をおいておこなわれなければならない。
  3. モノを媒介にして、不確定で決定不能な価値が動いている。そこに交換価値の思考が入り込んでくるのを、デリケートに排除することによって、贈与ははじめて可能になる。価値をつけられないもの(神仏からいただいたもの、めったに行けない外国のおみやげなどは最高である)、あまりに独特すぎて他と比較でぎないもの(自分の母親が身につけていた指輪を、恋人に贈る場合)などが、贈り物としては最高のジャンルに属する。
    [from 交換の原理・贈与の原理のメモ。]

交換の原理

それを断ち切るには「交換の原理」を使えばよろしい。これは等価交換であり、贈与の円環を断ち切る合理性を持ち合わせている。つまりは市場経済を機能させることで贈与経済は断ち切られるのだが、この「交換の原理」が機能する社会では、「安物買いの銭失い」という言葉が機能する。

  1. 商品はモノである。つまり、そこにはそれをつくった人や前に所有していた人の人格や憾情などは、含まれていないのが原則である。
  2. ほぼ同じ価値をもつとみなされるモノ同士が、交換される。商品の売り手は、自分が相手に手渡したモノの価値を承知していて、それを買った人から相当な価値がこちらに戻ってくることを、当然のこととしている。
  3. モノの価値は確定的であろうとつとめている。その価値は計算可能なものに設定されているのでなけれぽならない。
     [from 交換の原理・贈与の原理のメモ。]

Radical Trust

しかし会津若松市の事例は、典型的な「純粋贈与」の享受なのである。それは「ただより安い物はない」のであり、そもそも買っていないのだから「安物買い」でもないのである。

あたしは、Web2.0の純粋贈与性、普遍経済学性を指摘し、それはキアスム的に現実化する(Web化する現実)だろうと言ってきた。(今回の事例はその立証の、この国でのはじまりだろう)。

ただその進展に障害があるとすれば、Web2.0 memeのいうRadical Trust(つまり新しい時代の信頼)の確立にあると考えてきた。そして如何にして(この日本のような国で)Radical Trustは機能するのだろうかとも。

今回の会津若松市の事例ではRadical Trustが機能している(ように思える)。その要因は次のフレーズに収まってしまうのではないだろうか。

  • 「みんな」が普通に使っている

お金を払わない〈消費者〉

それは権威からの押しつけ(ヒエラルキー・ソリューション)ではなく、ましてや「」でも「われわれ」にも括れない「みんな」の動きなのだ。(たぶん)Webは「みんな」のものであることで、消費者の〈世界〉であるのだろう。しかしその〈消費者〉は、一昔前のマーケティングが想定したお金を払う〈消費者〉ではないのである。

つまり〈消費者〉は、「純粋贈与」を享受するし、「贈与経済」的にも動くし、「交換の原理」でも動く――つまり普遍経済学が機能する、かなり気まぐれな、なんだか分からないものへと益々変質しているように思える。

それが「Web化する現実」の本質といってもいいのだが、しかしひとつ言えることは、このわけのわからない〈消費者〉を前にして、純粋贈与の提供者だけが、お金では買えない情報を得、多大な信頼を得ながら、それをお金儲けにつなげているということなのだ。

その意味で、このシステムは「フラット」にはならないのだが、それがいいことなのか、悪いことなのかは、あたしには分からない。ただ〈世界〉はそんな風に動いている(ようにあたしには)見えるということだ。