円環の外にいる人達にとって、建設業は「なんだかわからないもの」になっていないだろうか?
「技術者のためのプレゼンテーション力向上講座のPPT」より
午前7時起床。札幌は晴れ。昨日はお昼過ぎに岩見沢入りし、西谷食堂でカツ丼を食べ、空知建設業協会で勉強会(そのPPTはこちら)。終了後札幌へ移動し、夜はトラットリア・トレンタにて久しぶりに札幌のイタリアンを満喫した。
昨日の読売新聞の一面は《下水道談合復活》で
下水道施設で使われる電気設備工事を巡る談合事件で、1995年に独占禁止法違反容疑で刑事告発された日立製作所や東芝、三菱電機など重電9社が摘発後に談合を再び始め、約10年間にわたって継続させた疑いのあることがわかった。
なんとも、だったのだが、昨晩のニュースというか今朝のニュースは、《下水道の電機設備で官製談合の疑い=札幌市や三菱電機など立ち入り-公取委》なのであって「おぼんのような世界」は、こうして裸にされていく。
「おぼんのような世界」とは、閉じた円環の社会であって、それは外から見れば「なんだかよくわからないもの」でしかない。
「なんだかわからないもの」に出会ったとき、人は二つの行動を選択しうる。
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「なんだかわからないもの」を「なんだかわかるように」しようとする
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無視する
フツーの人々は2の無視するを選択する、そのことでディスコミュニケーションに建設業界はおかれてきたわけで、500万人を越える就業者を抱え、地域の経済の基盤をになってきたこの業界に誰もコミットしようとしなくなった。
しかし1を職業としているのが「マスコミ」なのであって、彼らが突然「なんだかわわからないもの」を市民に「なんだかわかるように」説明をし始めるときがある。それが今回のような事件のときだ。
しかしそれは言ってみれば「マスコミ」のつくった物語なのであって(つまりプレゼンテーション)、それは(おぼんの外のひとたちが)自ら進んで「なんだかわからないもの」を「なんだかわかるように」したのではない。
つまり「おぼんのような世界」は自ら情報を発信(物語=プレゼンテーション)できないことで、好き勝手に解釈されている。つまり自ら情報を発信しない限り「なんだかわからないもの」は「なんだかわからないもの」のままなので、だからあたしらは好き勝手に解釈されてしまっている。
それを「好きにすれば」と言ってきた(無視してきた)のが「おぼんのような世界」でもあったのだが、たぶんもう言えなくなってしまったのは、「おぼんのような世界」そのものが「好きにすれば」といえるだけの強固な壁を持てなくなってしまっているからだ。
そしてそれが自らの壁の破壊(ひねり)ではなく、外部からの破壊であることで、あたしらは辛いのだわ。