墨田稲荷神社の万燈神輿
墨田稲荷神社の万燈神輿


これは偶然なんだけれど、昨日の東向島界隈(酎ハイ街道)徘徊は、墨田稲荷神社の本祭に当たったらしく、亀屋(この酒場については後で書く)のおかあさんから、「まんど撮りにきたのかい」と言われた。

しかしそれ(「まんど」)がなんのことなのかさっぱりわからず、いろいろとお話を伺えば、昨日と今日(つまり14日15日)は墨田稲荷神社の本祭で(3年に1回らしい)、万燈(このヨミが「まんど」なのだ)神輿が出るという。7時には直ぐそこから神輿が出るよ、とのことなので、鉄蔵さんと見に行った。

それはうちの町会の神輿(浅草の三社祭の神輿)とは違う華麗さを持っていて、神輿自体がでっかい灯籠のように自ら発光し、夕闇に映えることこの上ない。しかし担ぎ手の皆さんの高揚は、どこの神輿でも一緒であることで、万燈神輿が揺れる風情は、酔った余所者(遅れてきた者)にさえ、鐘ヶ淵のいにしえの繁栄を思い起こさせるのだ。

天文年間(1532~54)伊豆の堀越政知の家臣だった江川善左衛門が戦いに敗れて、この地に逃れてきて開墾し、伏見稲荷を勧請して氏神とした。約140年前の元冶年間、善左衛門の遺徳を讃えた里人が万燈に善左衛門の開拓由来の錦絵を描いて神輿として担いだのが始まりと伝えられる。http://members2.jcom.home.ne.jp/ichikondo/06%20sumidainarijinjadaisai.html

かといって、この神輿はずっと続けられてきたものではなく、昭和49年に復興したらしいのだけれども(ニースだったかどこか外国へも行ったらしい)、そこには亀屋のご主人はじめ町内会の尽力があった話を聞いた。それは岸和田や浅草同様、ここでも「街的」の中心には祭がある、ということでいいんだろうなと思う。

ただし祭りは「街的」の絶対条件ではないわけで、《携わることによる共同性の意識が、 作品を個人のレベルから、少しずつ集団のものとしてのレベルに肩代わりさせ、責任を 分かち合うようになる。》と川俣正が言うように、共同体性を担保するものとしてあるに過ぎないのだ。つまり祭りならムラ社会にもあるのである。

ではそれが「街的」であるには、どんな条件が必要なんだろうか。今度江弘毅にでも聞いてみようと思うのだ。