佐藤錦
佐藤錦


午前7時起床。浅草はくもり。今日と明日、うちの町会はお富士さん(浅草浅間神社)の植木市である。

佐藤錦

佐藤錦

山形の松田さんから、今年も、佐藤錦が届いた。

それは言わずと知れた立派なさくらんぼであって、この季節最高の純生産であり、商品であるが、あたしはそれを贈与としていただいている幸せ者だ。

桜桃

さくらんぼを祖母は「桜桃」と呼んでいた。「さくらんぼ」とはけっして言わなかった。それは桜の桃である。イディオム的に美しいそのことばを思い出せば、併せ、太宰治の『桜桃』なのである。

「子供よりも、その親のほうが弱いのだ。」そのフレーズにあたしは痺れる。桜の木(親)とその果実である桜桃(子)の関係は、(生産者にとっては)「子供よりも親が大事。」のはずである。しかしそれは消費の段階では逆転してしまい、桜桃を見て桜の木を思う人などいないのである。

言いかけて、私は、よした。女房の身内のひとの事に少しでも、ふれると、ひどく二人の気持がややこしくなる。
生きるという事は、たいへんな事だ。あちこちから鎖がからまっていて、少しでも動くと、血がき出す。
私は黙って立って、六畳間の机の引出しから稿料のはいっている封筒を取り出し、たもとにつっ込んで、それから原稿用紙と辞典を黒い風呂敷に包み、物体でないみたいに、ふわりと外に出る。
もう、仕事どころではない。自殺の事ばかり考えている。そうして、酒を飲む場所へまっすぐに行く。
「いらっしゃい」
「飲もう。きょうはまた、ばかに綺麗きれいしまを、……」
「わるくないでしょう? あなたのく縞だと思っていたの」
「きょうは、夫婦喧嘩でね、いんにこもってやりきれねえんだ。飲もう。今夜は泊るぜ。だんぜん泊る」
子供より親が大事、と思いたい。子供よりも、その親のほうが弱いのだ。
桜桃が出た。
私の家では、子供たちに、ぜいたくなものを食べさせない。子供たちは、桜桃など、見た事も無いかもしれない。食べさせたら、よろこぶだろう。父が持って帰ったら、よろこぶだろう。つるを糸でつないで、首にかけると、桜桃は、珊瑚さんごの首飾りのように見えるだろう。
しかし、父は、大皿に盛られた桜桃を、極めてまずそうに食べては種をき、食べては種を吐き、食べては種を吐き、そうして心の中で虚勢みたいに呟く言葉は、子供よりも親が大事。

(太宰治:『桜桃』 引用:http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/308_14910.html