かしみん
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昨日、二日酔いで苦しんでいるあたしに、江弘毅が往復書簡の原稿を送ってきた。
それは無限小な質量をもつクストで、二日酔いで腫れ上がった脳みそは、その重さに耐えられるわけもなく、あたしゃ「たらい回し」のところで目が回ってしまった(脳みそが揺れた)。M的快感を感じたわ。
そのテクストには「かしみん」という岸和田「浜地区」の「食い物」が出て来るのだけれど、あたしはそれを知らない。
しかし、知らないけれどなんとなく「わかる」ような気がするのは、その「わかる」が(あたし固有の)身体的なものだからであって、つまりは、あたしの記憶(データベース)からの「でっちあげ」が超個人的な「わかる」をつくっている。
しかしそれは、「でっちあげ」であるから、つまりは想像なのであって、知らないことと同義でしかない。だからと言ってネットで調べたところで、かしわ+ミンチ=「かしみん」ぐらいしかわからないのであるから、これではわかったことにはならない。
そこで仮に、あたしが大阪まで出掛け、岸和田の「大和」や、難波の「紙の屋」で「かしみん」を食べたにしても、それもわかったことにはならないだろう。なぜならあたしは「かしみん」(浜地区)とは、暦と地図を共有していないからだ。つまりそこは(あたしの)パトリではない、と。
しかし(たぶん)「わかる」こともあるはずで、それは「わかる」のではなく「共振する」というものだろうか。
それは「街的」の無限小を感じる、とでもいうもので、「街的」に生きる人なら、誰もが持つ心象である。つまり「街的」に「わかる」(差異を差異として感じそれを受け入れる)ということだ。
最小公約数的テクスト
そういう無限小を纏うテクストは、最小公約数的なゆるいテクストからは生まれ得ないだろうが、しかしそれは最小公約数的なテクストを求めることからしか生まれ得ない、とあたしは考えている。(どんなテクストも最小公約数を求めている)。
しかし、最小公約数とは数学的には無意味な言葉でしかない。なぜなら全ての正の整数の最小公約数は「1」だからだ。
どんな整数の組み合わせでも、最小公約数は、常に「1」でしかない、なので数学的には、「最小公約数」という概念自体、考えるだけ無駄なのであり、誤字である。
しかし「街的」(というかテクスト)を書くということは、無駄であることをわかって書いているようなものなのだ。無駄であることをわかってやっているのだから、最小公約数は誤字ではない。
そして「街的」を書くというのは、最小公約数の「1」を求めならが、限りなく「1」に近づいてしまい、「1」ではないものに巡り会ってしまうことではないだろうか。
例えば、テクストにおける「1」とは、「おいしい」とか「おしゃれ」という語彙である。その「1」をさらに微分してみた先に見えるもの。
例えば、「1」を使わずに最小公約数的を求めることで、整数ではない対象をみつけてしまうこと。