形式合理性、理論合理性、実質合理性、非合理性、実践合理性、超合理性。(GC空間)
形式合理性、理論合理性、実質合理性、非合理性、実践合理性、超合理性(GC空間)


哀しい

大分県教育委員会の汚職事件は、どこか哀しい。それはまず、この事件の登場人物の多くが、あたしと同世代であることだ。あたしらの世代というのは、たぶんこんなものなのだ。同じような状況におかれたら(一昔前のあたしなら)同じことをしただろう、という哀しさが今回の事件にはある。

ここでも「贈与の原理」が働いていることには確かだろうし、その行為は、第Ⅳ象限的に「実践合理性」をもつのも確かだ。しかし贈与の対象を違えたのが、教職という「公」の位置にある人達であることで、哀しい。「公」とは純粋贈与なのである、ほんとは。しかし彼(女)らは「純粋贈与」を知らない人達だったのだろう、と(あたしは)思う(しかない)。

それはつまり、パトリがない、ということなのだ。パトリなき贈与など欺瞞でしかない。欺瞞であるから破綻するのだ。

パトリを図示すれば、図の第4象限のことである。これを露出させる問いは「なぜ私はアナタではない私なのか」や「なぜここが他ならにここであるのか」である。それは〈私〉や〈ここ〉の根源的未規定性を露呈させる。それは〈私〉や〈ここ〉が入替不能である理由の、その未規定さの露呈である。from [パトリ]

あたしらの世代にはパトリがない。あたしらはそんな風に育ったのだ。

贈与の原理

  1. 普遍経済学のトポロジー贈り物はモノではない。モノを媒介にして、人と人との間を人格的ななにかが移動しているようである。
  2. 相互信頼の気持ちを表現するかのように、お返しは適当な間隔をおいておこなわれなければならない。
  3. モノを媒介にして、不確定で決定不能な価値が動いている。そこに交換価値の思考が入り込んでくるのを、デリケートに排除することによって、贈与ははじめて可能になる。価値をつけられないもの(神仏からいただいたもの、めったに行けない外国のおみやげなどは最高である)、あまりに独特すぎて他と比較でぎないもの(自分の母親が身につけていた指輪を、恋人に贈る場合)などが、贈り物としては最高のジャンルに属する。
    from [交換の原理、贈与の原理。

「いなかもの」の贈与の原理

贈収賄のそれは、贈与の対象が、「交換」の位置にいる特定の人間(もしくは役職)であることでいつも破綻する。それは[贈与の対象を交換から純粋贈与へ置き換えること]ができていないからだ。ある地位(職務)が、ある特定の人間(もしくは役職)の商品(持ち物)であるかのように、金銭に換算されて取引されるのは、恐ろしく孤独な個人の考えることだ。

「交換」は、ラカンのボロメオの結び目では「象徴界」の位置にある。そこに特定の個人(もしくは役職)を置くことは、前近代的社会の特徴なのであって、「象徴界」にいる、ある特定の個人(もしくは役職)のことを針千本マシンという。

その「象徴界」に「交換」が居座ってしまった今、そこにある特定の人間(もしくは役職)を置いて、金品を贈与することで見返りを求めること(見返りを与えること)を贈収賄と言うのだ。

それは、前近代ではない今という時代では、「街的」ではなく、「いなかもの」の贈与システムでしかない。(「いなかもの」とは田舎にの人達のことではない、ただ「街的」ではない人達のことだ)。

贈与は、どんな社会でも機能する。「街的」も「ムラ社会」も、贈与が社会的な基体でることは同じだ。ただ、贈与が向かう(世話をする)対象が違うのだ。「街的」が世話をするのは、純粋贈与としての「パトリ」だ。そこには他ならぬ「」や、「われわれ」としての他ならぬここがある。

贈与、交換、純粋贈与とわれわれ、みんな、私

こういう事件がある度に、「われわれ」が「街的」に大切に護持しようとする「贈与」とか、「実践合理性」は迫害をうけてしまうのだ。それはたいへんに迷惑なことなのであって、その度に、あたしは頭にくるのだが、くるけれどもどうしようもない。ただ「いなかもの」のバカヤロー!と浅草の片隅でそっと叫ぶのである。w