東京大学大学院の鈴木宣弘教授午前6時起床。浅草はくもり。日経ビジネスオンラインで[国民の負担なくして自給率は上がらない―政府の莫大な補助金が支える欧米農業の実態とは]を読む。

それは、東京大学大学院の鈴木宣弘教授の話しで、何故に、日本の食料自給率は低く、米国やフランス、オーストラリアは食料自給率100%オーバーなのか、そして国土がそんに広くないドイツや英国でさえ70%を超えているか、という単純ではあるが、全然明らかになっていない(「みんな」は知らない)疑問に答えてくれている。

あたしは欧米的な価値観をあんまり好まない人だけれども、こと農業に関しては、素直に見習わなくてはならないな、と思っていたりするのである。


攻撃的な保護の対象としての農業

それは、簡単に言ってしまえば、政府が農業を保護している、ってことだ。それは鈴木先生曰く、「攻撃的な保護」なのである。食料輸出国の多くは、農業の手厚い保護政策によって自給率や輸出競争力を維持してるわけで、米国の場合、『穀物の市場価格は安く、自由に形成されている。その一方で、生産者に対しては再生産が可能になるような水準の目標価格が設定されて、低い市場価格との差額を生産者に補填する仕組みになっている。コメや小麦、トウモロコシ、大豆、綿花などがこういう形で支援されています』なのである。

それは米国ばかりではなく、フランスは、農業所得の8割が政府からの直接支払いなのであり、ほかのEU(欧州連合)諸国も同じような割合で、(EUではないが)スイスのような山岳国ではほぼ100%、政府からの支払いで農家の生活が成り立っている。

WTOに申告している農業の国内補助金を見ると、日本は6400億円です。それに対して、米国が公式に出している金額は1兆8000億円。実際は、3兆円ぐらいあると言われています。EUは4兆円ですね。

なので、『米国の農家は競争力があるから増産して輸出国になっているのではなく、差額の補填が十二分にあるために国内需要を上回る生産が生じ、それが輸出に回っている』。そのあげく、輸出にまで保護があって、米国の場合、『実質的な輸出補助金だけで、多い年で1兆円近くの金額を農業に投入している』ことで輸出国なのである。

ここで思い出すのは、先の参議院選挙で小沢民主党が打ち出した「全販売農家への所得保障制度」で(その規模は1兆円である)、あたしはかつて[民主党の全販売農家への所得保障制度は「負の所得税」ではないのか?]とそれについては批判的なテクストを書いた。

なぜ批判的なのかといえば、それは「攻撃的な保護」ではないからで、なぜならその補助金は、継続的な「再生産」に結びつくとは思えないからだ。民主党の所得保障は、2兆円ある農業土木予算から1兆円を横流しすることで財源確保を目論んだものだが、それは生産性と農業の継続性を反故にしている。

攻撃的な保護

つまり、あたしがこの記事を読んで感じたのは、欧米の保護は「攻撃的な保護」になり、日本の保護は「負の所得税」になってしまうのは何故か、ということなのだけれど(減反のための補助金6000億も「攻撃的な保護」にはなっていないだろう)、それは「継続」「再生産」という概念、つまり、農業は「」や「われわれ」の基体(=パトリ)なのだ、という意識の〈有/無〉の差ではないだろうか、と。

食料は「消費」するものではなく、「備蓄」するものだのだ、と。だから継続的な「再生産」が必要なのである。日本のように「捨てる技術」(=交換の原理だ)なんってものを、食料に適応させる心象をもった国は、お金で欲望が買えると思っている成金のようなものなのであって、つまり「街的」がいう「いなかもの」なのである。

普遍経済学のトポロジー普遍経済額的

欧米の場合、農業を十分手厚く保護して、国内需要で余ったものは輸出に回す、というシステムを護持しようとしている。

そして「輸出」に関しても、それは市場経済ではなく、まるで普遍経済学の世界なのである。

それを「援助」というよりも、「蕩尽」と呼びたい、とさえあたしは思う。

例えば、ソマリアのように、カネがなくほとんど払えないと分かっている国に対する輸出に政府が輸出信用をつける。ほとんど焦げ付くわけですけど、輸出の保証人は米国政府。穀物商社のカーギルがソマリアにコメを売って、代金が回収不能になると米国政府がカーギルにカネを払う。初めから分かっていてやっているわけですが、こういう輸出信用が多い年で4000億円はある。

これは日本で言えば国際支援を笠に着た、政府と商社の「癒着」にでもなるだろう(つまり税金の無駄遣い)が、(あのアメリカでさえ)こういった政策が可能になっている背景には、「純粋贈与」の力(とそれに突き動かされる「贈与」)が働いているのだろうな、とあたしは思ってしまうのだ(だから普遍経済学企業であるグーグルは、日本ではなく、米国で生まれ得たのだろうとも)。

そしてその負担は、消費者ではなく、納税者としての「われわれ」のものなのである。つまり、農業の大切さは分かったとしても、あたしには農業をするための土地も技術もない、ってことだ。だとしたら、あたしが(パトリとしての)農業を護持するためにできることは、間接的なことでしかなく、つまりは「攻撃的な保護」のための「税負担」である。

しかし「われわれ」が、「消費者」ばかりの「みんな」でしかないのであれば、「みんな」は(パトリとしての)農業は大切だとは知っていても、農業のために自らの税負担を増やそうとはしないだろう。つまり総論賛成、各論反対がいいところだろうな、とも思うのであるが、それは「贈与」(つまり「かなしい」)が足りないからでしかないし、消費主体である「みんな」が抱えたジレンマなんだろうな、と思うのだわ。