敬老の日
2008年9月15日
敬老の日


午前4時起床。浅草はくもり(たぶん=暗くてよくわかからない)。Googleロゴは、今日が「敬老の日」であることを表徴していて、またしてもあたしはGoogleに「」を知らされている。

そのロゴは物語であって、孫(ひ孫)が、じいちゃん、ばあちゃんの絵を描いて、それを郵便ポストに投函している幸せな風景だ。しかしそれは、Being Digitalの先導者であるGoogleらしからぬアナログでもあり、年寄りは、Googleのサービスの外にいるということなのか。

あたしも50才の年寄りに違いないが、しかし敬老の日の対象ではなく、なによりもまだ青臭い。その青臭い年寄りは、デジタルを普通に使い、Googleの純粋贈与を平気で享受していたりするけれど、まだ郵便ポストに絵を入れる立場なのか、と思えば、故郷には年老いた父と母がいる。あたしの両親もBeing Digitalの外側にいることには違いない。

ロラン・バルト:『彼自身によるロラン・バルト』:p25―鏡像段階「お前が、これだよ」―それは仕方のないことだとしても、親子の関係が、「敬老」という言葉に内包されるようになるとは夢にも思っていなかった臍の緒がつながったままの世代があたしらで、そんな想像界的且つデジタルなあたしらも(つまりオタクだ)、もはや老いというものから逃げられなくなったと自覚するとき、「敬老」という言葉に日々内包されていく自分は、はたして「敬う」に値する歳の取り方ができているのだろうか、と思うと、なにか不安になる朝だ。

しかし、そういうあたしが「敬老」に取り込まれたとき、郵便で届く一枚の絵はあるのだろうか。それは電子メールよりも嬉しいかもしれないな、と思うし、そういうものが残っている時代に、年寄りとして生きていたら、面白いだろうな、と思う。