知事発言に台東区長ら抗議

石原都知事の発言に対し、抗議の記者会見をする台東区の吉住弘区長(左)と木下悦希区議会議長=7日午後、東京・台東区役所大阪市の個室ビデオ店放火殺人事件を巡り、石原知事が台東区の山谷地域に関して事実と異なる発言をしたとして、台東区の吉住弘・区長と木下悦希・区議会議長は7日、知事にそれぞれ抗議文を送った。

石原知事は3日の記者会見で、被害者の多くが個室ビデオ店を宿代わりにしていたとされることに触れ、「山谷のドヤ(簡易宿泊所)には200円、300円で泊まれる宿はいっぱいある」とし、「格差の犠牲者という一方的なとらえ方はね。中にはそういう人もいるかもしれないが、1500円払えるのなら、もっと安く泊まれるところはいっぱいある」などと話した。

抗議文では「発言は実態を正確に把握してのものではなく、重大な事実誤認があった」と主張。地元関係者の街づくりへの努力で、近年は外国人観光客などの利用が増えている点を挙げ、「イメージが著しく損なわれ、誠に遺憾」として訂正と謝罪を求めている。

同区によると、山谷地域では宿泊料が200円や300円の施設はなく、多くが2000円程度という。

記者会見した吉住区長は「地域が街づくりを真剣に考えている時に、『安く寝泊まりできる』という安易な考えが誤解を与える」と述べた。石原知事の発言を巡っては、ワーキングプアらを支援するNPO法人「自立生活サポートセンター・もやい」が6日、発言撤回などを求める公開質問状を提出している。

「200円、300円で泊まれる」とした点について、石原知事は7日、報道陣に「認識不足で申し訳ない」と語った。抗議文などには言及していない。(2008年10月8日 読売新聞


類的限界

山谷地区は隣の町内会だが、東京都が(あたしの)町内会に成りえないのは、石原さんの発言からもあきらかで、「都」というのは、あたしの感覚だと「種」ではなく「類」に近い。だから石原さんの認識がこんなものでも、あたしはたいして驚きはしない。ただ、都知事として、ちゃんと見ていない現実があることがあきらかになったことで、多くの台東区民は、石原さんの限界を感じていることだろう。

種的行動

一方、台東区は、あたしの一番大きな「」(町内会)で、その「種」間の調整を行う「都」(類)の長が、この程度の認識でしかないのなら、抗議を行うのは当然なのである。石原さんが、やっぱり山谷の宿は200円、300円が相応しい、等といっても(言いかねない)、もう、そういう時代ではない。

アジールとしての山谷

かつての山谷地区は「アジール」であった(石原さんの発言は、そんな時代認識のままなのだ)。どんな社会でも、なんらかの理由で(自発的であろうがなかろうが)社会から締め出される(あるいは逃げ出す)人々はいる。そういう方々の避難場所がアジールであり、たしかに山谷地区は強烈なアジールとして機能していた(時代があった)。

アジールは、社会統制(権力や社会的主流)には反しているかもしれないが、その存在のおかげで、また社会が安定する装置でもある。なので統制者としての石原さんは、その存在を否定してはいないし、むしろ存在することを望んでいたのだろう。

しかし、かつてのような、アジールとしての山谷地区の機能は既にない。山谷はその役目を終えているのである。その意味では、1年前に森永卓郎さんがいったように、今やネットカフェがアジールなのかもしれない。

今、出来ようとしている。そしてそれは、従来の形のスラムとは違った、いわば地域横断的な新しい形の「分散型スラム」である。 (森永)

かもしれない、と書くのは、あたしはその実態を知らないからであって、それは石原都知事とたいして変わらない。

アジールなき時代の難民

しかし、あたしがここ(裏浅草)に住んでいて感じるのは、いわゆるホームレスの人達が増えているな、ということであって、特に、ひさご通り、千束通り(両方とも一応屋根がある)では、多くなったな、という感がある。最近、山谷地区には行っていないけれど、様子はどうなのだろうか。

しかし山谷地区のアジールとしての機能は終えているし、うちの近所のホームレスの人達はネット難民にも成れない方々だ(高齢化が進んでいいる)。だから問題は、アジールなき社会的難民なのである。アジールがないということは、社会が本来、自然発生的に備えているシステム(柔軟性)を失っているということだ。それを石原さんは、(東京には)山谷地区がある、として安心していたのかもしれないが、だから問題は、アジールとしての山谷地区は、今はない、ということなのだ。