『国富消尽』

国富消尽―対米隷従の果てに

吉川元忠(著)
関岡英之(著)

2006年1月9日
PHP研究所
1500円+税 


少し古い本を読んでみるといい

午前6時40分起床。浅草は晴れ。最近のあたしの口癖は「少し古い本を読んでみるといいよ」というものだ。今の時代は、思考的に、あるバイアスがとれている可能性が高い。それは米国の金融危機がもたらしたものには違いないなく、つまり、ナイーブな個人主義や、グローバリズム、新自由主義というような(英米流金融資本主義の底辺に流れる)教義に侵され加熱した脳みそも、今は、少しは冷静になっているだろう、ということだ。

国富消尽

そういう脳みそで昔読んだ本を今読むと、かつてとは違った印象や、感想を得ることができるし、新しい発見をすることも多い。たとえばこの『国富消尽』という本は、2006年の発刊で、あたしは2年ほど前に読んだ。内容は英米流の金融システム批判であって、もちろんそれを我が国でバックアップした竹中-小泉政権への強烈な批判にもなっている。それは(こんな)あたしには正論としか思えなかったけれど、「みんな」の間ではほとんど話題にもならず、抹殺された本だった。

言論の自由とはいうけれど、意識的にテレビ村は空気をつくるのか、この手の意見(反小泉的なもの)は、マスコミ的には、ほとんど抹殺された時代はたしかにあって(まだ続いているか)、たとえば森田実さんはその典型だった。この本もそんなものだが、だからといって、今の時代に突然復活することもないのは当然で(吉川元忠さんはこの本の刊行直前に逝去されている)、ただ今読めばわかる、ということもあることで、一読の価値はある、と(あたしは)思う。

ミネルヴァのフクロウ

特に「郵政民営化」については、「みんな」はその意味もわからずに、政治バブル的にそれに賛成し、副産物的に小泉チルドレンという(今となっては)負の資産をつくってしまった。その誤りを今更強調してみせるのは「ミネルヴァのフクロウは黄昏時に飛ぶ」(@ヘーゲル:後知恵的解釈のこと)でしかないかもしれないが、「反省」なんていうものは、生きているうちにしてなんぼのものだから、黄昏時に飛んでいいのである。

会計基準とかBIS規制とか

あたし的にこの本から教えられるのは、やっぱり時価会計基準のとんでもなさだし、BIS規制の嘘くささだ。だいたい自己資本8パーセントの根拠なんていうのは、その数値が(当時の)アメリカの銀行にとってはクリヤしやすく、日本の銀行にとっては厳しものという理由から決められたというに過ぎず、それが健全な国際金融業務が可能であるかどうかなんて関係ないのである。今の金融不況状況では、既に米国は時価会計制度を緩和している。

日米欧、時価会計一部凍結へ 金融危機封じへ非常手段

 日米欧が一斉に、金融機関や企業が保有する債券や証券化商品などの金融商品を時価で評価する時価会計の適用を一部凍結する方向で動き出した。日本は民間の企業会計基準委員会(ASBJ)が16日、時価評価の対象外になる範囲を拡大するなど会計基準を見直す検討を始めた。市場の混乱を受けて時価会計凍結を検討する米国や、見直し策を打ち出した欧州に追随する。世界的な金融危機を封じ込めるため緊急措置に踏み切る。

 日本の会計基準を作るASBJは16日の会合で「金融商品に関する会計基準」の見直しで一致した。年内にも改正案をまとめる見通し。これを受け、金融庁が金融商品取引法の関係政省令で最終決定する。適用時期は未定だが2009年3月期から適用する可能性がある。 (07:00) NIKKEI NET

町内会的じゃないルールを疑え

ルールなんていうものは、人間がつくるものに過ぎず、つくろうとしている人間の利害とか思惑とかが当然に反映される。中立性や公平性なんてものはないと思っていいのである。けれど、日本人は「国際基準」という(英米流金融資本主義のルール)に異様に弱い。あたしが大嫌いなISO9000なんていうのもそれだろうが、(悪党的であるはずの)地場の建設業も、意外とそういうものに弱いのである。そして一旦それが導入されれば、一生懸命それを遵守しようとする。そのことで、あたしらはほぼ骨抜きにされた。

それは村落共同体的、ムラ社会的心象が働いているのだろうな、とは思うが、あたしが地場の建設業のルールとして強調してきた、「街的」、町内会的、「組合の原理」とは違う。それはオルタナティブをもつことの必要性の強調だ。町内会的ルール(自発的秩序)も、つくろうとしている人間の利害とか思惑とかが当然に反映される。けれどもそれは、極端な「勝ち組」もつくらないし極端な「負け組」もつくらないことで、共同体全体の幸福を目的とする。

国富消尽』が強調しているのは保守的なものである。けれどもそれは、新自由主義的なものの反対側であることで、読む者に自由を与えてくれている。その自由とはもちろん「思想の自由」であり「思考の自由」だ。あたしらはその自由によってのみ、この疲弊した時代に機能できる創造性を持ち合わせることができるのだろうな、と思う。