1月全国百貨店売上高 過去2番目の下げ幅

1月全国百貨店売上高 過去2番目の下げ幅<2/19 19:39>消費の低迷を受け、百貨店の売上高が過去最悪の水準となる落ち込みを続けている。
日本百貨店協会が19日に発表した09年1月の全国の百貨店売上高は約6131億円で、前年同月比で9.1%減少した。減少は11か月連続で、消費税導入の影響を受けた時期を除けば過去最大だった08年12月に続き、2番目の下げ幅となる。

食料品や催事などは回復傾向にあるが、宝飾品や冬物コートなどの高級品が依然、苦戦を強いられており、初売りも伸び悩んだ。また、法人需要の冷え込みも大きく影響している。

百貨店協会は「衝動買いがなくなり、一人当たりの購買点数が少なくなっている」と話し、今後、消費者の生活に貢献するような企画を打ち出すことで売り上げ回復につなげたいとしている。 from  1月全国百貨店売上高 過去2番目の下げ幅 | 日テレNEWS24


午前5時50分起床。浅草は雨。あたしの住んでいる街にも百貨店はあって、名前は浅草松屋という。それは古臭い建物と、年寄りじみた商品構成と、それに負けず劣らず年輪を重ねた客で構成されている店であって、今の浅草の一面を表徴している。

今更売り上げがどうしたというレベルの売り上げであるわけもないのは、浅草の人に宝飾品や冬物コートなどの高級品は最初から関係のないものだからでしかなく、浅草松屋は、ただそこに存在していることで浅草の人達は安心するような文鎮のような存在である。

だからその文鎮のために時々買い物にもいく(松屋じゃないとダメなものというのもちゃんと存在する)。そしてあたしは北海道物産展と沖縄物産展と新潟物産展の時には、自転車を漕いで出掛けることを欠かさない。それは近所の店ゆえのことであって、あたしにとっての浅草松屋は、あたしの町内会と地続きの、ちょっと立派な商店街なのでる。

あたしの街にはジャスコもイトーヨーカドーもない。小さなスーパーと商店街はあるけれど、地方でみる郊外化されたショッピングセンターなんていうものはない。なぜなら浅草は郊外ではないからであって、郊外化というのは、新興住宅地で暮らす家族という生活様式の一般化で成り立っている。

デパートは都市のものである。東京はともかくも、地方をみればそれはあきらかだった。地方のデパートは、だいたい県庁所在地かそれに準ずる都市にしか存在していなかった。そこには近所の商店街にはない商品があり、必ず大食堂と屋上遊園地があって、アミューズメントであり、テーマパークのようでもあり、つまりは非日常の場であった。

あたしが子供の頃には、デパートに出掛けるときにはよそ行きの洋服を着ていったのである。デパートにでかけることはハレだった。そしてデパートにはひとりではいかないことで、家族を単位とした生活様式の象徴でもあった。

それがデパートが存在するための生活様式だったのである。日常/非日常のギャップ。今はほとんど絶滅危惧種でしかないけれど、今でも日本橋高島屋の特別食堂へでかければ、その残像をみることができる。

休日に両親や祖父母に連れられ昼飯を食べている子供達がいる。あれは子供達の習慣ではなく、両親や両親の親の習慣の残像なのだが――だから子供達はあんまり楽しいものではないのかもしれない。今や子供達にはもっと楽しい非日常がある(たぶん)――なにかしらの伝承が行われていることを感じる。

デパートの衰退とは、それが成立するための生活様式の衰退でしかない。それは日本でいえば、郊外化とスーパーマーケットの隆盛とともに始まっていたのだが、バブルが延命してしまっただけのことだろう。つまりブランド品である。スーパーになくて、デパートにあるものは「ブランド品」だけであった。

しかしブランド品は子供にはどうでもいいものでしかない。それは大人の非日常である。しかし今やブランド品はデパートでなくても買えるし非日常でもなくなった。

百貨店の売上高が過去最悪の水準となる落ち込みを続けているのは子供達に見放されたからだと(あたしは)思う。子供達に見放されたということは、デパートが子供達を見放してしまったということだし、家族という生活の基底が百貨店にはない、ということだし、非日常性を喪失してしまったということだろう。

非日常性が喪失してしまたのは、あたしたちが豊かになったせいともいえる。であれば、百貨店の売り上げが伸びるなどということは今後ないのである。それは、〈欲望〉のフロンティアを切り開くことで経済は成長するという命題に忠実なのであって、百貨店はその役目を担えないということだ。

フロンテアの開発限界に達したところにデパートはとっくの昔に達していて、バブル的に過剰な拡張はあった。とすれば、それは縮小均衡するだけのことだろう。それはスーパーマーケットも同じことだ。