江頭進(えがしら・すすむ)日本人は、競争というと本当に典型的な競争をやってしまいます。例えば、英国のような2大政党制にしようという主張が日本でもされました。しかし英国で痛感したのは、英国は極端なコネ社会だということです。労働党と保守党で分かれて対立しているようでいて、実はケンブリッジ大学とオックスフォード大学のカレッジに所属して同じ釜の飯を食ったり、同じボートを漕いでいたりしていた。表面的には論争していても、根底で持っている文化は結構共有している部分が多い。会員制クラブのような社交の世界があって、その部分で繋がっていて裏で話していることがものすごくたくさんある。これは米国でも同じです。

マーケットでも同じで、表面では競争するけども、裏で何らかの関係ができるというのが必要なのです。しかし実は、このことは今の経済学ではうまく描けない。今の経済学では、単純に言ってしまえば裏で談合しているゲームでも、個々のプレーヤーの利益を最大化することですから。

例えば、経済学には「コモンズの悲劇」というゲーム理論の典型的な話があります。広い放牧地で皆が牛を放牧していると、牛が草を食べ過ぎて、しまいにはやせてしまう。しかし実際のコモンズでは、そんなことはあり得ない。本当の共同体や共有地には、実は厳しいルールがきっちりあって、そのルールは皆が試行錯誤しながら作るからです。皆が牛を放牧しすぎたり、1人で大きな牛を飼ったりはできなくても、それなりに大きな牛を維持できるという現象がある。日本の入会地や漁業協同組合なども、そういう構造です。

しかしこうした議論がなかなか経済学でメジャーにならないのは、今の経済学に向いていないからです。それは時間の考え方の取り扱い方が今の経済学にはなくて、極端な話、経済学は時間のある現実世界をどうやって無時間的に扱うかというための努力を100年くらいずっとやってきました。時間のある社会をそのまま書くということをやっていない。 江頭進 小樽商科大教授 from 「小泉構造改革」は誤解の集積だった:日経ビジネスオンライン


午前5時起床。浅草は晴れ。風邪気味は、「気味」が取れてしまったようで、左の耳の中が痛いし、当然に喉も痛い。身体はだるく脳みそは回らない※1。そんなもので昨日はほとんどなにもできずに過ごした。今朝は少しだけ元気(なような気がする)。

 「小泉構造改革」は誤解の集積だった:日経ビジネスオンライン を読んでいた。小樽商科大の江頭進先生のインタビュー記事だが、この江頭先生、かなりおもしろい。一度会いに行こうかしらと思ったりする(江頭先生は迷惑だろうけれど)。札幌で勉強会ができればいいな等と(取らぬ狸の皮算用的に)思う。

ハイエク
再び嫌いじゃないと書く

あたしはハイエクは嫌いじゃないと以前書いた。※2 あたしの周りにもハイエクが嫌いじゃない(というかハイエク好きな)人はけっこう多いのだけれども、その理由は、あたしがハイエクを嫌いじゃないという理由とは全く違っている(たぶん)。

ハイエク好きな人がなぜハイエクが好きなのかといえば、小泉構造改革を生んだ「新自由主義」と呼ばれる経済政策の背後にあったとされるのがハイエクらの経済理論であって、英国のマーガレット・サッチャー元首相や米国のロナルド・レーガン元大統領らの政策の精神的支柱とされているから、というものだろう。

それは「なんだかわからないもの」に出合ったときの99%の人たちがとる行動でしかないのだけれども、あたしは小泉さん的なものは全部嘘だと云っては顰蹙を買ってきた人なので、そんな理由でハイエクは嫌いじゃないと云っているわけではない。

あたしがハイエクが嫌いじゃないのはきわめて「街的」な理由からで、それが例えば上の引用にある「コモンズの悲劇」である。つまり共同体の秩序であり、ハイエクの言葉なら「自生的秩序」のことだ。

本当の共同体や共有地には、実は厳しいルールがきっちりあって、そのルールは皆が試行錯誤しながら作る。それをハイエクが「自生的秩序」と呼ぶなら「自生的秩序」とは「街的」なのである。「街的」には実は厳しいルールがきっちりある。だから街が宿った店にもルールがあるのは当然であって、そのルールは皆が試行錯誤しながら時間をかけてつくるのである。

なぜ共同体に自生的秩序が必要なのかと云えば、それはドーキンスの以下の言葉の引用でいいだろう。

遺伝子淘汰の観念は、素朴単純に原子論的なわけではない。なぜなら遺伝子は、「容れ物」を共有する可能性がきわめて高い他の遺伝子と生産的な相互作用をおこなうことによって淘汰を生き残るからである。』(リチャード・ドーキンス:『悪魔に仕える牧師』:p339) ※3

人間は「ひとりで生きられないのも芸のうち」@内田樹なのであり、ひとりで生きられないから「容れ物」を必要とする。それが共同体なのであり、「街的」であり、町内会であり、社会である。その共同体にルールが必要なのは、人間は基本的には利己的な生き物だからであって、しかしその利己性だけに頼って生きるなら、共同体は壊れ、「容れ物」を失うことで、あたしたちは逆ESS的に淘汰される可能性が高くなるからだ。※4

普遍経済学実体経済がその社会で営まれるものなら(というか営まれているのだけれども)、経済はその社会のルールを基底もつことで利己姓の牽制が入る。つまり経済は必ず社会的なルールの縛りを受ける(比較精度分析だわ)。

その縛りを鬱陶しいとするのが「交換の原理」であり、ルールを飛び越えて貨幣の自由な移動を可能にしようとするグローバリズムである。なので「交換の原理」は社会的ルール、つまり「街的」、自生的秩序の温床である「贈与」を破壊しようとする。

時間の問題

そして「時間の問題」である。「交換の原理」の最大の欠点、というよりもそれが一人歩きしたときの問題点は、時間概念の欠如だろう。交換か即時の行為であることで、時間をかけて変化するもの(たとえば人間)への視点はなくなってしまう。

江頭先生がいうように、今の経済学には時間の概念がない。『極端な話、経済学は時間のある現実世界をどうやって無時間的に扱うかというための努力を100年くらいずっとやってきました。』なのである。

『時間のある社会をそのまま書く』というのは、つまり「普遍経済学」的な思考であり、「街的」な思考である。しかしそれには根性がいるのだな。だからみんなやらない。それだけのことだろう。

ということで。「桃組春の勉強会」でのあたしのテーマは、「キアスムと贈与」―つまり時間とともに変化すること。なのである。これも話している方も聞いている方も根性がいる(たぶん)。だからどうしたというわけではないのだけれども。

※注記

  1. 今のあたしはSE脳であるので尚更である。
  2. 『ハイエク 知識社会の自由主義』 池田信夫 を読む。 参照
    というか本日の内容ほとんどここで書いてあることの再利用のようなものだ。w
  3. ノスタルジアとパトリと浅草と。 参照
  4. 浅草は利己的な街なのである。だからこそ戦略的に利他的なのである。 参照